2012年03月18日

ビーチャン、メッセージ有り難う

今日は、いつもコメントを頂いているビーチャンがわさわざ会いに来てくれた。時が経つのも忘れ、2時間近く話し込んでしまった。
ビーチャンは17歳の時に洗礼を受け、信仰歴が30年にもなる。私は洗礼受けてまだ4ヶ月しかならず、歳は私よりも10歳も若いが、非常に勉強になった。信仰歴のある方から、様々なメッセージを聞き、色々と教えられることばかりである。

私も3年ほど前に、与儀喜美江さんという敬虔なクリスチャンに出会い、キリストに関心を持つようになり、自分なりに中川牧師のCDを買い求め、色々と学ぶうちに、新約の福音が何か、クリスチャンのいう救いが何かを知るようになり、私自身キリストを受け入れ、昨年11月27日に、洗礼を受けた。

しかし、3年前は福音というのが、どうしても理解できなかった。

何故、イエスの十字架が救いに繋がるのか、私は会った事もない見知らぬ人に、自分の罪を贖ってくれとお願いした覚えもないのに、一方的に「貴方の罪のためにイエスは十字架で死なれた」と言われても、それこそ小さな親切、大きな迷惑であった。

そもそも自分の罪を他人になすり付けて、刑を執行させ、そして自分の罪が放免されるとでも言うのだろうか。それはまるで暴力団の組長が殺人を犯して、自分の手下に、「お前が出頭して、自分がやったと言え」と指示し、自分の罪を手下に負わせ、刑罰から逃れようとするものではないか。またある地域に勝手に縄張りをはり、ここは俺たちが命をかけて守っているから、縄割り料を払えと要求しているような物ではないか。

罪を償うのは自分自身で負うべきであり、他人がそれを代理できるはずないし、法的にもおかしい。何故、クリスチャンは、イエスが罪人の罪を背負って、貴方に代わって罪を背負われたと言うのか、本当に脳天気の人達だな。何が十字架によって自分は救われたというのか、本当に心の底からそう信じているのだろうか、疑問に思っていた。

私には全く意味不明であった。

だから、与儀さんと出合った最初の頃は、率直に私の疑問を彼女に投げかけた。

あなた方クリスチャンは、イエスを神の子と言いながら、実際はイエスを家畜としてみているのでないか。イエスを家畜ではなく、人間としてみたら、大衆の面前で、丸裸にされ十字架に架けられると、本人のプライドはどうなるんだ。今まで弟子訓練をして、弟子たちも、奇跡を見た多くの人達からも神の子として崇拝されているのに、そのイエスの人間として尊厳性を、貴方は考えた事はあるのか。

もし仮にあなたの父親が危篤で息を引き取ろうとする間際に、自分の兄弟が、息を引き取ろうとする親の目の前で、電卓をパチパチさせながら、あの土地は私が貰う、この銀行口座は私がもらうと、言い争っていたら、貴方はどういう気持ちになるんだ。イエスが十字架に架けられた時も、ローマの兵士がイエスから剥ぎ取った着物を、ニタニタ笑いながらゲーム感覚でイエスの着物を誰が取るか奪い合っていた事が聖書に記されているではないか。人間の尊厳性も総て剥ぎ取られて、そこに何の希望があるというのだろう。

私には、どこに救いがあるのか全く分からない。

あなた方は、イエスを感情を持たない家畜としてみるから、十字架につけられたイエスに対して何の感情もわかないのだ。イエスも我々と同じ血が通っており、褒められれば嬉しい、誤解を受ければ悲しい、侮辱されれば悔しいという感情を理解する必要があるのではないか、貴方は十字架によって救われたと自信を持って言うが、私には全く理解できない。貴方の愛は上滑りの見せかけの愛で、そのような愛で人が救われるとは、とうてい信じがたい。

別にクリスチャンを揶揄している訳でもなく、侮辱している訳でもなく、ただ純粋に疑問に思うから尋ねた。

そのような疑問は与儀さんだけにではなく、牧師にもぶつけた。多くの牧師は、まるで私が疫病神にでも取り憑かれた人が、目の前に現れたかのように、「あなたは何様だから、そのような質問をするんだ」と意気込む人もいた。

しかし、私は困った質問して牧師が慌てふためく姿を見たいのでなく、純粋にその答えがほしかった。

与儀さんもそのような質問ばかりを繰り返す私に愛想を尽かし、新訳聖書のへブル人への手紙をコピーして、事務所のポストに投げ込み、これを読んで勉強しなさいと言わんばかりであった。私もほとほと困り果てた。私の真意がクリスチャンに伝わらない。私は分からないから、ただ教えを請うているだけだ。何故、クリスチャンは明確に答えてくれないだろう。

その答えは、三浦綾子の「道あるき」「塩狩峠」の作品を見たときに解けた。神の愛がどういうものか、イエスの示された愛が自己犠牲の愛で、神の御性質を顕したものであることを知った。特に「塩狩峠」を見たときには、本当に涙があふれ出て、自分の命を犠牲にして、汽車の暴走を食い止めた長野氏の行動には感動した。これが神の愛、真実の愛、三浦さん有難う、真実の愛が何かがよく分かりました。本当に有難うと、流れ出る涙を抑えながら、思わず手を合わせた。

そして、神の愛を、新約の福音がよく分かったとして、洗礼を受けた。

あれから4ヶ月がたつが、信仰を私よりずっと先を歩まれるビーチャンがわさわざ会いにきてくれた。信仰歴のまたまだ薄い私だから、30の信仰歴を持つビーチャンの証は、本当に有り難いものだった。

ビーチャン色々と有難うございました。勉強になりました。


同じカテゴリー(案内)の記事
ブログ再開
ブログ再開(2014-02-07 17:17)


Posted by 呉屋弘光 at 21:41│Comments(0)案内
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。