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Posted by TI-DA at

2012年03月09日

呉屋さんは沖縄のマタイだ

昨日、琉球放送の6時のニュースのテレビ番組で球陽出版が取り上げられた。番組終了後、テレビを見たという電話、メールでの問い合わせが相次いだ。終了後ヤフーで「球陽出版」と検索してみたら、なんと1,110万件もヒットした。通常190万件ぐらいヒットするが、昨日の反響は半端な数字ではなかった。系図を作成したいという申し込みも2件あった。

テレビ番組を見た感想が数多く寄せられる中、「何故ユタを信じるか」の著者である友寄隆静氏より、「番組をみて、金城米子さんが呉屋さんは沖縄のマタイだ」と言った言葉を思い出したと、メールがあった。

マタイか!おもしろい表現だな。

聖書を読まれたことのない人にはピンとこないと思うが、新約聖書の四福音書を書いた一人である。福音書とはイエスがどういう方だったかをそれぞれの視点から書かれている。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四名のうち、最初に出てくるのがマタイの福音書。彼は取税人であったがイエスに出会い、イエスをメシヤ(救い主)として受け入れた。彼の福音書はユダヤ人向けに書かれている。

ユダヤ人達が待ち望んでいた救い主は、イエスであり、かつてユダヤ人達を奴隷から解放し、律法を与えて救ってくれた主なる神が、今イエスを通して顕現し、神の福音を伝えているのだと説いた。旧約に書かれていることはイエスを通して成就している。だからイエスをメシヤとして受け入れるようにユダヤ人に迫った。

そして彼の福音書はイエスキリストの系図から始まる。神の血統がいかに引き継がれてきたかを淡々と語り継ぐ。

彼の焦点にあるのは、常に契約の民ユダヤ人だ。

考えてみれば、私の系図作りも、常に沖縄人だ。いつも沖縄が念頭にある。そして沖縄の救いがどこにあるのかいつも探し求めている。球陽出版を立ち上げた時も、沖縄の精神文化の原点を求めてを会社のモットーとした。

そして2年ほど前に「おきなわルーツ紀行」の本を発行し、一人の敬虔なクリスチャンの出会いから、キリストと出会い、救いが何たるを教えられた。

以前は何故、拝みで人が本当に救われるか非常に疑問だった。拝みで全てが解決すると言うなら、誰も仕事に勤しみ必要はないではないか。そうなると皆が拝みだけをして、世の中は拝みだらけになる.それでは世の中が成り立たない。拝みは非科学で、信用に足りないと思っていた。

しかし、キリスト教を学ぶにうちに、ユタがやる拝みとキリストの拝みは全く違うものである事を発見した。仏教にしろ、ユタにしろ拝みは共通している。つまり呪い祟りが自分に降り掛からないように、ひたすら熱心に祈る。しかし、十字架上でのキリストの祈りは全く違う。呪い、祟りが自分に降り掛からないように祈ったのでなく、逆に呪い、祟りは全部自分だけにかけてくれと祈った。罪は全て自分一人で請け負うから、彼ら(自分以外の全ての人)には負わせないでくれ、と創造主なる神に懇願した。そこで神と人間との和解が成立した。

三浦綾子の「道あるき」「塩狩峠」を読みながら、自分の命を犠牲にしても他を活かす愛、この自己犠牲の愛に触れた時、キリストとは何か、神の愛とは何かを知らされる思いがし、涙が留めも無く流れ出た。キリストの愛を通して神の愛を知り、それが人間が本来持っていた姿であることを知った。

去年の東日本大震災以降、人々の意識に大きな変化が見られる。誰もが失いつつある「絆」を何とか取り戻そう必死である。家族の絆、親子の絆、夫婦の絆、地域の絆、日本人としての絆、そして世界が日本と一つであり、世界が日本の痛みを共有しているのだと、人間として絆を深めようとしている。

このような時こそ、キリストに仕えるものは、一見絶望にしか見えない十字架上でのキリストの姿を仰ぎみ、イエスが何に希望を見出し、人々に希望を与えたのか、謙虚に学ぶときではないだろうか。イエスが見出した希望は間違いなく神である。

私も球陽出版を立ち上げて満6年、ここにきてようやく沖縄の精神文化の原点、天地創造の神とようやく出会ったような気がする。系図作成は私にとって、まさに修行の場である。ひとつひとつを完成させることによって、一歩一歩神に近づいているような気がしてならない。

何よりも先を歩まれる先輩方より、少しでも認められるお言葉を頂くことはこの上なく嬉しい限りである。