2012年09月11日

新刊「命どぅ宝」

新刊「命どぅ宝」


新刊「命どぅ宝」

沖縄から世界平和の鎮魂歌
神との和解と赦し
著者 瑞慶山道弘
B6判 172頁
定価 1500円(税込み) 

新刊が出来ました。タイトルは「命どぅ宝」副題に沖縄から世界平和の鎮魂歌/神との和解と赦しです。この企画は去年の三月から、完成するまで1年以上かかりました。企画の趣旨は、ズバリ「救いとは何か、救いの完成とは何か」キリストの信者でなくても分かるように説明してくれと、著者の瑞慶山牧師にお願いしました。

牧師は最初戸惑っておりましたが、趣旨を説明するとすぐに納得してくれました。牧師は以前にユダヤと沖縄の風習の類似性について書いた本を発行しておられましたが、ただ沖縄の風習とユダヤの風習の類似性を説明しただけでは、人の好奇心を煽るだけで、キリストの救いと何の関係もない。もっと的確に何故十字架によって救われるのか、その解釈がほしいと言いました。

何故なら、「イエスは人類の罪を救うために十字架上で死なれた。」との説明が雲を掴むようで、何のことを言っているのか、理解に苦しみました。常識的に考えても、刑罰を与えられ、人々の晒しものにされ死んでいく人のどこに救いがあるというのか、あるのは絶望と死しかないのに、クリスチャンはどこに希望を見いだし、救いを得たというのだ。

その時、一つの事が思い浮かんだ。

確かに法的に考えると、自分の罪を誰かが代理で被り、その人に刑が執行されれば、その罪の咎を問われることはない。

なるほど!

しかし、法的は刑罰から逃れて救われると解釈できるが、良心的にそれは許されるだろうか。例えば自分が殺人の罪を犯し、それと全く関係ない人が自分がやったと名乗り出て、仮に死刑が確定し刑が執行されでば、確かに自分は罪から解放される。クリスチャンはそのような事で罪から救われたと解釈しているのか、

まったく以てけしからん奴らだ。

これでは暴力団と同じだ。組長が何人もの人を殺害し、組の手下を呼んで「お前がやったことにしろ、その代わり出所したら俺がちゃんと面倒みるから」と言いつけているようなものだ。これがキリストの救い!地球の反対側から地球全体に縄張りをはり、私は命をかけてあなた方を守ったから、縄張り料をよこせ、要求しているようなものだ!

これは小さな親切、大きな迷惑だ!

これがキリストの愛で、そのような愛が人類を救うというのか。
私は十字架の救いを自分なりに考えたとき、頭の中は混乱しそのような疑問がぐるぐる巡り、収集がつかなくなりました。

そして、もう一つ、どうしても理解できないのが、イエスを晒し者にし、市中を引き回し、嘲笑罵倒する人に、その人を許すと宣言されたイエスの言葉だ。何故だ?なんでそのようなことが言えるのだろう。この方の目からは自分を殺そうとしている人達はどのように映っているのか。

是非そこが知りたい。自分を殺ろそうととする人を絶対に赦すことができないはずなのに、何故「赦す」と言ったのか、これは演技でやれるものではない。

そこで私が考えたのが、今回の本の企画でした。

そうだ、瑞慶山牧師は宮古出身だ。

宮古の島民はかつて台湾遭難事件で、原住民のパイワン族に首を切られ多くの人達が殺された。2005年にその末裔の人達から、自分達の先祖が犯した罪を許してくれと申し入れがあったとき、それを素直に受けとめ、和解のセレモリーをやっている。何故、宮古の方々は自分達の先祖を殺した人達の呼びかけに、素直に応じたのか。このセレモリーは新聞の記事を見て知っていた。

そこで考えた。

何故、宮古の方々は自分達の先祖を殺害した人達を受け入れたのか、この出来事とかつてイエスが十字架上で自分を殺害する人達を許すと宣言されたことを重ね合わせることによって、イエスの目に映ったユダヤ達がどのようなものであったか、理解できると思った。

瑞慶山牧師には何度もお願いした。先生も関係者の一人だから、真剣に祈れば何だかの示しがあるはずだ。私も真剣だった。十字架でイエスで見たもの何か教えてほしいと、見えざる神に懇願した。瑞慶山牧師も真剣に祈り求められ、その回答を得た。それが今回の「命どぅ宝」としてまとめられた。その中で私が教えられたものは「赦し」の重要性である。

殺したいほど憎い人がいても、その人を許さない限り平安はこない。救いはない。イエスが嘲笑罵倒されながらも「私は許す」と宣言されたからキリスト教が生まれた。そして多くの人達に多大な影響を与えた。もし十字架上でイエスが「私はあなた方がやったことを憎む。絶対に許さない」と宣言したなら、どうなっていたのだろう。

いくら口先だけで平和を叫んでも、心に憎しみを持ったままでは、けして平和は訪れない。瑞慶山牧師によると、今、韓国、中国などから多くの牧師が沖縄の「平和の礎」を訪れ、異口同音に沖縄の平和資料館は、自分達の平和記念館と全く違うとの感想を持たれるようだ。韓国、中国でも平和記念館はいっぱいある。しかし、そこに展示されているのは、我々の民族は日本帝国主義に、こんなことをされた、あんなこともされたと、これでもかこれでもかと言わんばかりに、憎しみを駆り立てる展示物が陳列されている。

そこに平和は訪れるだろうか。看板だけの口先だけの平和記念館である。
心に平和がないのに、どうして平和がくるというのだろう。

心に憎しみを持ったまま相手を絶対に許さないとの思いでいるなら、それは癌細胞も同然で、その人の身体をも蝕み、後は座して死を待つだけである。救いはどこにもない。まず許すことから始めねばならない。赦しから救いははじまる。

イエスはどのような仕打ちにも耐え忍ばれ「許す」と宣言された。そしてこのように祈れと教えられた。

「私に罪あるものを赦しますから、私の罪も許して下さい」

私もキリストの救いが何であるのか良く理解できなかったが、今回の新刊「命どぅ宝」でその回答が与えられた気がする。救いに対して全く無知であった私にも分かるように導いてくれた神に心より感謝したい。

できれば、一人でも多くの方に手に取って頂き、神の御心に触れるキッカケになればと思っている。書店にはもう並べられているが、ないときは書店に尋ねれば、直に配本するようにしますから、店員に声をかけて下さい。

神はこの本を通して自らのメッセージを世界に向けて発せられているように思えてならない。



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Posted by 呉屋弘光 at 22:22│Comments(0)お知らせ
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