2012年09月10日

罪の赦し

 今日は久しぶりに与儀喜美江さんが事務所を訪ねてくれた。今、実家のある大里で小物の販売を兼ねた喫茶店を先月がはじめて、結構お客さんも増えたようだ。特に中年の女性が訪ねて「自分は何故かユダヤのことが気になって、色々と教えてほしい」と声をかけてくるとの事。やっぱり沖縄とユダヤとは深いかかわりがあるのを、日々実感する毎日のようで、信仰の友が頑張っているのを見ると、こちらも嬉しい。

 今日は同級生の友達もお店に訪ねて、「今、夫と家庭内別居状態で、夫の何気なく発した言葉で傷ついて、毎日が憂鬱で顔を思い浮かべるだけで、イライラし自分の気持ちを押さえることができない」との相談をうけたようだ。与儀さんは「理由はともあれ夫を許しなさい」とアドバイスした。

友人「どうしても許せないから、イライラしているのであって、どうすれは許せるのか!」

与儀さん「あなたの許せないという感情は、心の癌細胞のようなものだ。これは心の中でどんどん増殖し、あなたの身体まで蝕んでしまう。だから、まず声に出して「許します」と宣言してみては。イエスも自分を妬み怒りで殺そうとする人達に「父よ、彼らを赦したまえ」と祈ったではないか。イエスのこの一言があったから、キリスト教が生まれ、赦しの言葉に触れた人達は癒しを与えられたのである。十字架上でイエスが「私にやった仕打ちを私は絶対に許さない」と言ったら、人類に救いはないのでなかったか。」

だから貴方も夫に対して声を出して「許します」と言ってみて下さい。

誰に対して言うか。神に対してである。

そこで、主の祈りを紹介したようだ。「私は夫の罪を許しますから、どうか、私の罪も許して下さい」と。そして次の言葉も添えて言うように勧めた。「国と栄えと栄光はいつまでもあなたのものです。」これはこの世で起こる事は、全て神の栄光が現れる為に起こっているという認識です。

これはクリスチャンとノンクリスチャンの決定的な違いである。キリストに信仰のないものは全てを原因と結果で物事を理解する。夫がこんな事を言ったから、私はこんなに苦しんでいるんだ。こんな原因があるからこのような結果になったのだと考える。言わば因果応報的に考える。問題なのは、それ以外の考え方は存在しないと完全に思鋳込んでいる。

しかし、キリストは別の見方があることを教えてくれた。生まれつき盲人を見て、弟子達はイエスに尋ねた。「これは誰が悪いのでしょう。本人の犯した罪の報いですか、それとも、先祖の犯した罪の報いでしょうか」。イエスは答えた。「これは本人でも先祖の罪でもない。神の栄光が現れるためだ。」そして盲人は癒され、目が見えるようになった。

そうです。キリストの見方は我々と全く別の視点に立っている。苦難は原因・結果にあるのでなく、神の栄光が現れるためだと。だからどんな苦境に立たされても、たとえどうしても許せないと思っても、声に出し「私は許します。どうか私が罪を許したように、私の罪も許して下さい。すべては神の栄光が現れるためです。

特に沖縄の女性は、何か悲惨なことが起これば、「これは何代前の先祖の供養がなされてないから不足が立っている」とユタから急かされ、拝みに走るケースが多いような気がする。しかし、祟りは絶対にありませんから、キリストが教えてくれたように「私は許します。私が許したように私の罪も許して下さい。」と神に呼びかけてみよう。神は必ずその祈りに応えてくれます。

与儀さんの話しでは友達も、見る見るうちに心が穏やかになり、喜んで帰られたようだ。これからは日々の暮らしの中で「あ〜、このことを自分に気づかせるためにこうなったんだ。なるほど」と。神の栄光を見るように祈りたい気持ちになった。


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Posted by 呉屋弘光 at 21:39│Comments(0)キリスト教
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