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Posted by TI-DA at

2012年04月23日

家系調査のため久高島に行ってきました

系図の依頼主は糸数家。久高島に住んでいる訳ではなく、本人達の実家は与那国にあります。祖父母の時代に久高島から与那国に移住しています。その一つ前の曾祖父母の代に、那覇士族魚氏の宮城家の三男普松が掟として、那覇から久高島に移住しました。どのような事情で久高に移住したかはこれからの調査になりますが、那覇士族魚氏宮城家の十世普松が分家して創家したのが糸数家で、那覇から久高に移住した屋敷跡も確認しました。


この方が、依頼主の入松川恵子(旧姓糸数さん)さん。依頼を受けたのは三年前に遡りますが、当時は自分達の親戚全員名前の最初の一字に「普」が使われているのに、それが何を意味するのか、何も理解していませんでした。私の方から「普」の名乗り頭を使っている士族は、那覇士族で「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷を輩出した門中であることを伝えました。


それから沖縄の門中制度に関心を持つようになりましたが、私には不思議でなりませんでした。どうして、沖縄では名の知れた一門でありながら、末端にくると名乗り頭はおろか、自分達の氏名(うじめい)さえ知らない人達が出てくるのだろう。士族であれば、自分達の氏名、名乗り頭を知っているのは当たり前の事であって、一門ではしっかりと伝えられていないのだろうか。しかし、たとえ伝えられなくても、子どもたちが名前をつける時、何故自分達は「普」の一字が皆が使用しているのか、疑問に思い、親に尋ねることはしないのだろうか。

調査が進むにつれて、氏集には那覇士族魚氏に糸数家がないことが分かりました。氏集は士族の住民基本台帳のようなもので、約680系統の首里士族、那覇士族、泊士族、久米士族全ての記録が記載されています。明治34年までの記録ですので、その記録にないという事は、明治34年以降に、糸数家は新しく分家した一門であることが分かります。

明治34年以降に創家した分家筋であることは分かっても、どこから分家したのか、今ひとつハッキリしません。魚氏といっても家譜が五つもあり、本家多賀良家からか、分家筋の宮城家か、あるいは許田家かよく分かりませんでした。

ラジオ番組で情報提供を呼びかけると、宮城家の方との連絡が取れ、宮城家の十世三男が久高島に分家した記録があることがわかりました。時代考察をしても、伊波普猷と同年代ぐらいで今生存している人達の証言を聞いても、全てが一致します。伊波普猷は明治9年生まれであることはハッキリしていますので、同世代の宮城家三男が久高に移住していることが確認できました。

ここにきて、那覇士族魚氏の糸数家はそのルーツが明白になってきました。

調査を開始してから3年近くもかかっております。しかし、忍耐して希望を持ち続けておれば、道は必ず開けることを今日、久高を訪問して、つくづく感じました。焦る気持ちはあっても、忍耐強く待つのも、大切である事を学びました。

昨日の宮城家の清明祭参加、今日の久高島訪問と、確実に道が一歩づつ開けてきています。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:18Comments(4)那覇士族

2012年04月22日

魚氏宮城家の清明祭に参加しました

沖縄では四月は清明の時期に入っています。清明の節(4/4)に入って、最初の日曜日から、おそらく地域によってまちまちですが約1ヶ月ぐらい続きます。しかし、基本的にはどの門中も一緒で、まず最初に執り行うのが、門中の元祖を参拝する門中清明祭をやり、その次の日曜日から、分家した家族ごとに分家の立ち口を参拝します。

今日参拝したのは魚氏の宮城家の歴代の先祖を祀っているお墓です。糸満市まえさとにあります。魚氏の総本家のお墓は、識名霊園の中にあり、清明の節入後最初の日曜日に一門全体で参拝されたと思います。今日はその二代目の分家筋にあたる宮城家の歴代の先祖を祀っているお墓を参拝しました。


魚氏を有名にしているのは、分家筋の方から「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷を輩出していることです。伊波普猷は明治9年生まれ、民俗学、言語学、歴史学者として知られ、古琉球のおもろ研究は彼の名を世に知らしめました。敬虔なクリスチャンであったことも良く知られています。琉球讃美歌を歌っている具志堅ムツコさんが、よく色々な集まりで沖縄語の「主の祈り」を作ったのも、伊波普猷です。本家は多賀良家ですが、その分家筋にあたる許田家から分かれが伊波家になっています。ただ氏集には伊波家の記載はなく、明治34年以降、中本家の許田家より分家したと思われます。


今日参拝したのは、許田家の初代の兄弟にあたる宮城家のお墓です。良く兄弟は顔形は似るといいますが、兄弟門中を比較すると非常に良く似ているように感じます。それは顔形というより、その人達の生き方が非常によく似ています。何故伊波普猷が49歳で、沖縄県図書館長という役職も投げ捨てて、東京に上京したのか、よく分かります。個人情報に関わるのでこれ以上のことは書けませんが、似たようなことが、分家筋の至る所で見受けられるます。

しかし、沖縄を代表する偉人を輩出した一門なので、表の顔だけでなく、身内として顔も、系図を作成していると教えられます。色々と勉強になります。系図作成の依頼は、宮城家のさらに分家筋にあたる糸数家です。その糸数家は宮城家から分家して、現在与那国に住んでおられます。そこの実家は以前にテレビドラマで有名になったDr.コトー診療所の撮影現場としても使われた家でもあります。そして、与那国に移住した二代目の繁さんは「海と老人」の映画の主人公としても映画放映されました。先祖の歩んだ道を、これからの子孫にどう伝えるか糸数家の系図作成を通して現在奮闘中です。  


Posted by 呉屋弘光 at 22:06Comments(0)那覇士族

2012年02月24日

系図はジグゾパズルのピースをはめていくようなもの

新規の系図の申し込みがあり、本日契約書を交わしました。

依頼主は平良家で、自分達は親から士族だと聞かされ、名前の最初に「幸」の字が代々ついているが、調べてくれとの事だった。調べてみると士族で名乗り頭に「幸」の一字が使われている平良家は、泊士族と那覇士族の両方にあった。泊士族では新参政氏と、那覇士族の習氏である。

泊士族の平良家は家譜数も少なく1冊しかなく、那覇士族の平良家は全部で15冊もある。家譜数が多いということは、それだけ子孫も多い事を意味する。最初相談を受けたとき、門中には平良姓しかないと思い、泊士族の平良家の新参政氏ではないかと、お答えした。

しかし、よくよく話を聞いてみると同じ一門には国場家があり、小嶺家があり、具志家もあるという。同じ門中で複数の家名があるならば、泊士族でなく、那覇士族の習氏だと判断した。

やはり、そうであった。

球陽出版で発行している士族門中家譜に書かれている習氏の部分は、すべて親から聞かされていたのと一致しているとの事。それで自分の代で分かる分は整理して記録として是非残したいとのことだった。私は仕事の関係上、平良家で名前は「幸」で統一されていると聞けば、、それは習氏だとピンとくるのだが、本人は本を見て初めて自分達が那覇士族の習氏だと知ったという。

こちらでは当たり前だと思っている事も知らない人もいるのかと、不思議な気持ちにさせられた。

検索ソフトを使って平良家で「幸」の字をもつ名前の人は約250件ほどある。平良家で幸の字のつく系統は、泊士族、那覇士族両方にあり、那覇士族にはさらに2つ系統が平良姓を名乗っているので、依頼人のルーツに結びつく系統は240の約3分の1、80所帯が依頼人の門中に繋がるだろう。

本日、平良家と契約を交わしたので、これから一軒一軒電話で平良家の各所帯に連絡を取って、依頼人と結びつく人達を探し出す気の遠くなるような作業が待っている。約半年、場合によっては調査は一年以上続くかも知れない。

依頼人は私に言った。

「系図はジクゾパズルのピースひとつひとつを埋めていくようなものだ。分かるものと分からないものをハッキリ区別し、分からないものは、そのままにして空けておきたい。言わば未完成であっても、それを精魂こめて、後孫に引き継げは、それを引き継いだ人達が完成させようと必死にルーツを探しあてるはずだ。いたずらに結論を急ぎ、ユタに頼み、合っているのか確認もないままに後の人に引き渡したくない。」

全くおしゃる通り、系図は結論を急いではいけない。代々の引き継ぎを親から子、子から孫と正確に引き継いで、ピースも一つ一つを皆で協力して、埋めていく作業だと思う。そこにこそ一族の一体感が生まれると思う。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:01Comments(0)那覇士族

2011年11月16日

浦添ゆうどれの墓守の子孫

浦添市西原に在住する崎間門中の伝統系図を作成中だが、
最初は「自分たちは平民の子孫で、士族とは関係ない」と
一門の方々は語っていた。

しかし、今日その崎間門中の本家筋にあたる
宜野湾市嘉数の前佐喜真門中の伊波義雄氏を
訪ね、ルーツを取材する中で
一門が明治の廃藩置県の頃まで
浦添ゆうどれの墓の番人であったとの資料を見せられ
一門は平民出ではなく、那覇士族の系統ではないかと感じた。

崎間門中は初代の武仁から
代々「武」の名乗り頭を名乗っており
特に本家の崎間では、
「武」の一字を平成の人達まで
名前に付けている。

分家筋の二男腹、三男腹、四男腹、五男腹でも
明治大正の頃までは、
子孫全員に「武」の一字を使用している。

伊波義雄氏には、
名乗り頭に「武」の一字を使用しているのは
那覇士族の蔡氏があることを伝え
蔡氏の家譜は全部で6冊あり
2冊は現存が確認されており
那覇市歴史博物館で閲覧することが
可能であることを告げた。

伊波義雄氏は、西原の崎間門中の系図が完成したら
すぐに自分たちの前佐喜真・伊波門中の系図も
作成してもらいたいのことで
ルーツを自分の代でハッキリさせたいと
意欲満々である。

私も、
浦添、宜野湾の両市にまたがる門中の歴史を
記録に留める機会を与えられ
非常に光栄に思っている。

門中の知られなかったルーツが
一つ一つ明らかになることは
門中にとって、大きな喜びであるが
私もそれに立ち会う事によって
その喜びを共有できる幸いを
本当に感謝している。

校正もほぼ終了しており
今月末には完成予定である。  


Posted by 呉屋弘光 at 20:28Comments(0)那覇士族