2011年11月29日

洗礼と良きサマリヤ人

先日、宮古バプテスト教会で瑞慶山道弘主任牧師より洗礼を受けました。
洗礼は、40名近い宮古教会の信者の賛美歌の祝福の中
来間大橋下にある前浜農村公園前の海岸で
厳粛なうちに執り行われました。

瑞慶山牧師の「汝を父・子・聖霊の御名によって洗礼を授ける」と
天にも届かんばかりの透き通った宣言には
身が引き締まる思いがしました。

本当に感無量でした。

今までキリスト教の知識を
何一つ持ち合わせて無かった私が
キリストの愛を知り
そして神の愛を知り
このように導かれて洗礼を受けることができたのは
神の恵みによるものです。

ただただ感謝の気持ちで
心が詰まりました.

当日は、私と根間竹秀兄弟の二人が
洗礼を受けました。

根間兄は、長らく宮古教会を通っていますから
洗礼を受ける資格は十分にありますが
私は宮古教会に行ったことは一度もありません。
それどころか、沖縄本島のどこの教会にも行ったことは
全くありません。

そのような私を、宮古教会の方々は
根間兄と全く同じように扱い
温かく祝福してくれました。

本当に神の導きに感謝です。

洗礼の後、宮古教会の方々各自が一品づつ持ち寄った手料理の
おもてなしも受けました。
これも初めて知りましたが、愛餐会というようです。
沖縄本島でも、お供え物をしたあと
「ウサンデー」と称して、参拝をしたあと
共に共食して、そのお互いの絆を深めますが
それに非常に似ていました。

愛餐会に預かりながら、ここに集った一人一人が
本当に真の家族のように
愛おしい気持ちになりました。
感激のあまり涙が溢れそうになりました。

見ず知らずの私を、
快く迎え入れ、このように持て成してくれる教会員を見ながら
私は明治の初めに、この海岸近くで難破したドイツ商船を救出した
ドイツ商船遭難事件を思い出した。

宮古では誰でも知っていますが
明治7年に、上野の海岸沖でドイツ商船が沈没しそうになったとき
島民はサバニを漕ぎ出し、乗組員全員を救い出し
手厚くおもてなし食料を与え、ドイツに送り返しています。

見ず知らず外国人にも
その人が困っていると知れば
自分の危険を顧みず
自分の事のように心配し
救いの手を差し伸べる
宮古島民の博愛精神です。

宮古の方々は親からその話を聞かされ育って来ております。
ですから、困った人がいると黙って
他人事のように見過ごすことができない。
損得勘定なしに救いの手を差し伸べる
それも自分の危険も顧み見ずやるところが、
宮古島民の博愛精神の凄さです。

しかもそこにドイツ村まで建設して
その博愛の心を
子々孫々まで伝えようとする心意気は
本当に圧倒されます。

私は愛餐会に預かり、
宮古教会員の姿を見ながら
聖書の中にある「良きサマリヤ人」の話も思い出しました。

ある旅人が強盗に襲われ瀕死の状態で道に倒れている所を
二人の人が通りかかりました。
一人は律法学者で、瀕死の旅人を見たが無視して通り過ぎた。
そしてもう一人のパリサイ人は、傷ついた旅人を見て
事件に巻き込まれたくないとして、その道を避けて通った。

最後にそこを通ったサマリヤ人は、瀕死の旅人を哀れみ介護し
宿に連れて行き、お金を払って宿の主人に手当をするよう頼んだ。
お金が足りなければ、後で来て払うとまで約束して宿をあとにした。

そこで旅人にとって良き隣人とは誰かと、イエスが尋ねる。

律法学者は物事の道理は良く分かっていて
学問の知識も豊富に持っているが
目の前に苦しんでいる人の苦しみが分からない。

パリサイ人は信仰心が厚く
神の愛を人に説くのに
目の前に苦しんでいる兄弟の嘆き悲しみに
その愛を施そうとしない。

イエスは頭だけで知って、行動に結びつかない
愛、道徳、規範の無意味さをそこで説いた。

人間にとって最も重要なこと
真理を知っているかでなく、それを行動に移すかである。
いかに学問の知識があるかでなく、それを実用して生かせたかである。

困った人、嘆き苦しんでいる人がいれば
その苦しみを取り除き、救いの手を差し伸べるが
本来の人間の姿でないかと説いた。

口先だけで、何ひとつ他人に役立つことをしない
他人のためには指一本も動かそうとしない
当時の律法学者、パリサイ人をイエスは嘆いた。

今回宮古で洗礼を受けて分かったのは
宮古の方々が、まさに私にとって良きサマリヤ人で
人の苦しみを自分の苦しみとして受け入れ
すぐに救いの手を差し伸べる博愛精神を見る思いがした。

私は2年前に与儀喜美江さんを通して
キリストを知り、新約の奥義が何かを知り
新約の福音が何かも良く理解できるようになったので
洗礼を受ける決意をしたが
今までどこの教会に通った事も無く
洗礼が受けられる所がなくて
非常に困った。

今まで教会に通った事もない人が
突然、洗礼を受けると宣言しても
人間的なしがらみから何かを企んでいる
と誤解され、途中で辞めよう思ったこともあり
破綻しそうにもなった。

その頃、那覇に来沖された瑞慶山牧師にお会いしたとき
「宮古教会では呉屋さんのことを祈っています」との言葉を頂いた。

私にとっては不思議な出来事であった。
洗礼の話を、牧師は自分のことのように喜ばれた。

何故この人は、他人のことを自分のことのように喜ぶのか
不思議でならなかった。
私に洗礼授けたからといって、
何の利益がある訳でもない。
教会に一度も来た事の無い人が
突然、沖縄本島からやってきて
洗礼を受けるというのは
自分の都合だけを押し付ける迷惑な話でもあるはずだ。

しかし、洗礼を受けて初めて分かった。

私はまさに瀕死の状態の旅人であったと。

宮古島の方々がもっている博愛精神
人の苦しみを放っておけない
常にその人の側にいて
励まし救いの手を差し伸べる

まさにその働きこそが、聖霊の働きであり
神が宮古の方々を通して
救いについて、最も必要なものは何かを
教えてもらっているような気がしました。

この精神こそは、これからの沖縄、
いや日本、アジア、世界に必要とされているものではないか
と強く思いました。

宮古教会の導きに心より感謝しています。

有難うございました。

宮古教会の上に、神の祝福と守りがあるように
私も祈ります。

真の主イエス・キリストの御名によって
          アーメン!


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Posted by 呉屋弘光 at 11:08│Comments(0)洗礼
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