2011年10月28日

「おきなわのルーツ紀行」著者与儀喜美江さんと打ち合わせ

「おきなわのルーツ紀行」の著者の一人である与儀喜美江さんと会いました。

与儀さんは敬虔なクリスチャンで、
キリスト教について全く知識がなかった私に、
キリスト教を知るキッカケを与えてくれました。

以前に、
与儀喜美江著「おきなわルーツのルーツ紀行」の本を編集したときに
キリスト教で教える十字架の死がどのような意味があるのか
色々と質問をした。

世界的に広まっているキリスト教であるが
肝心な同じ同族であるユダヤ人達は
イエスをキリストとして受け入れない

イエスをキリストとして
受け入れないだけでなく
十字架刑で殺害した

私の頭は、
キリスト教に対する疑問がいっぱいで
この敬虔なクリスチャン与儀さんに
聞けば分かると思い何度も同じ疑問をぶつけた。

何度聞いても、
「自分はイエスの十字架に死よって救われている」の
一点張りで、私の納得のいく回答は何一つ得られませんでした。

そこで、私は尋ねました。

「あなた方クリスチャンは、
イエスを神の子だと言うが、
実際は、イエスを家畜並みに考えてないか

そう!

家畜、

世の罪を取り除く子羊とは

かつてユダヤ人たちが
自分の罪を贖うために
羊を生け贄に捧げたように
羊の代表品として
イエスを神の前に
生け贄として捧げたという意味か

しかし、

イエスが十字架に掛かって、
人間の罪を取り除いて
全ての罪人が救われる道を開いた
と説明するが、

そもそも人間は他人の罪を被ることができるのか
あるいは自分の罪を、全く関係ない人になすり付けて、
自分の罪の責任を逃れよういうのか

それがキリストの教える「救い」なのか

それは、全く持って悪どい
暴力団がやるやり方と同じでないか。

例えば、ある暴力団の組長が色々な犯罪を犯して
その罪を自分の手下に身代わりに
自首させ、手下に責任を負わせて
自分は、その刑から逃るようなものではないか

それのどこに神の愛があるというのか

それが、キリストの正義というものか

なんてクリスチャンは能天気な考えをしているのだろう。

疑問は次から次へとわき上がり
何らその疑問の解決できませんでした。

しかし、2年目にしてここ最近
その疑問に対する回答を得る事ができました。

私とクリスチャンとの間に
「罪に対する概念」が根本的に違っていることに
気がつきました。

そう!

同じものでも、

その人がどのような概念を持っているかによって
現実が全く違う形で見え
一方には怒りと憎しみが、
一方には喜びと感謝が生まれるという
不可解な現実に気づきました。

だから事実が問題ではありません。

事実を本人がどのように考え受け止めるかによって
まったく違うように見え、また違う感情がでてくる。

ですのでイエスの十字架の死も
それを、どのように受け止めるかによって
「救い」になるか「裁き」になるかに
分かれるという真実に気づきました。

2年間、この敬虔なクリスチャンに
キリストの愛がいかなるものか
議論を交わして来ましたが

ここにきて、私もようやくクリスチャンが見る十字架が
いかなるものか、良く見えるようになりました。

そこで、新約の福音を受け入れ
私も、その証として
洗礼を受ける決心をしました、

洗礼についての色々とお話を聞きました。

確かにクリスチャンの目線で見ると
イエスの十字架の死を見ると
神がいかなる方で慈愛に満ちた方だと
いうことが良くわかります。

来月4日に、宮古から
瑞慶山牧師が来沖されるので
その時に、洗礼を受けようと思っています。

与儀喜美江さん、色々と相談にのって頂き有り難うございました。

天の導き、神の恵みに感謝です。


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Posted by 呉屋弘光 at 20:33│Comments(0)洗礼
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