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Posted by TI-DA at
 

2012年03月07日

3月8日PM6:15に琉球放送報道番組で放映される事が決定

先ほど、琉球放送制作局の比嘉ちはるさんより、先日収録したものが、明日、午後6時の報道番組で紹介されるとの連絡が入った。系図に関する地域の話題として「何故若者に系図を作ろうとする人達が増えているのか」約5〜6分ぐらいにまとめて、比嘉ちはるさんがレポートするようです。

今、系図を作ろうとする若者が本当に増えている。以前は70〜80代の方々が球陽出版を訪ねて系図を依頼した。しかし今は20代、30代、40代の人達がだいぶ増えている。今から20年前に私の門中でも門中会を結成し、系図の作成を始めました。あの当時私は40手前でしたが門中の先輩方より「あなたは若いのによく系図に関心もって、よく調べている」と珍らしがられましたが、今は20代の若者が門中の長老に働きかけて、是非門中の系図を作ろうと呼びかけている。

浦添西原から注文のあった大城門中の棚原家も、依頼があったのは27歳の若い青年である。自分達の先祖は代々「地頭代」をやっているとのことを聞いているが「地頭代」とは何か、是非知りたいと図書館を通い、仏壇の位牌に書かれて名前を、明治36年砂糖消費税請願書の書名の中にあるとビックリして、この署名の人物は棚原家の初代の人と同一人物なのか確認してくれとのことだった。

今の若い世代は、漠然としたルーツ探しではなく、実際にある史料を通して、その先祖に近づこうとする。非常に謙虚で驕ることがない。純粋に自分達の先祖を詳しく知りたいとの要望である。自分達の一門の権威を高めるために元祖に近づく、以前の人達と動機が違ってきている。

今回、琉球放送に紹介したのは、読谷座喜味から依頼のある島袋門中の若者である。しかも、その方は女性である。名前が仲代千咲さん。まだ若い年、代が30代前半である。最初事務所に来られた時、年が若いので、自分達の親族図でも作ろうとしているのか思ったが、実家の門中の系図を作成したいとのことであった。顔も真剣そのもので、自分達のルーツを正しく知りたいとのことであった。

正直ビックリした。何故このように真剣に自分のルーツを知ろうとするのか、今から20年ほど前に島袋門中でも系図を作成しようと試みたが完成しなかったようだ。そこで、千咲さんが立ち上がって自分の代で何とか完成させようと、本家の島袋小の当主の嫁さんと協力しながら今、急ピッチで作業が進めている。

不思議な事に、今私が調査している馮氏諸見里家とも関わりがあることが、島袋小本家の仏壇の下の引き出しから数々と出てきた。まるで先祖が私と島袋門中と馮氏の諸見里家をめぐり合わせているかのようであった。これから新しい事実も明らかになってくると思うが、それよりも何よりも、それを取材させてくれと申し込んできたのも、実に不思議な話しである。何かに導かれているようだ。

明日、6時の報道番組で取り上げられるのも不思議な縁だ。トータルで6時間近くの取材だったが、それを6分にまとめるのも大変な作業だと思う。できれば一人でも多くの方に、今何かが変りつつあることを番組の中から感じ取ってもらえればと願う。

そしてさらに不思議なことに、この記事を書いている途中、知人から「今、琉球放送で明日系図の話題が取り上げられると話しているが、呉屋さんの所と何が関係あるのか」との電話があった。

関係があるもなにも、球陽出版に取材の申し込みがあり、こちらで作成している門中系図の内容が報道される旨伝えた。知人友人にも連絡して皆で明日は見るとのことだった。

ああ〜、今何かが変ろうとしている。  


Posted by 呉屋弘光 at 20:12Comments(1)
 

2012年03月03日

系図のナカジリの扱い

今日は、首里士族の湛氏・名嘉真家を訪問した。湛氏は初代がおもろ奏者として知られ、数々のエピソードも残されている。

湛氏の元祖恩納親雲上宣存の祖父は数明親雲上といい、伊波村で生まれ、幼少の頃からおもろ(古謡)をたしなみ、その謡いは妙をえていた。ついに王府の目に止り、神酒司(みきつかさ)となり、首里に住むようになった。尚清王が久高島参詣のおり、神酒を持ってお供をした。帰航のとき暴風雨になったが、数明親雲上が船首に立っておもろを謡うと風波が鎮まり、船は無事与那原浜についた。そこで数明は神歌頭に任じられ、大島数明(住用)の地頭職を賜った。

まるで聖書に出て来るガリラヤ湖畔でイエスの乗った船が嵐にあったとき、イエスが風を叱りつけると嵐も治まったとの記録を彷彿とさせるような出来事である。湛氏の系統は、沖縄の拝みにも深く関わっているように思えてならない。

一世の恩納親雲上宣存は、尚寧王が薩摩に連行されたとき、おもろ役としてお供した。帰国して美里間切恩納地頭職に任じられ、真和丘の御拝領墓をもらっている。墓は今次大戦で破壊され、遺骨が確認できない状態にあるようだ。

本家が岳原家で、名嘉真家は二世宣安の四男が創家した家柄である。家譜は全部で9冊あるが、現存が確認されているのは本家岳原家と分家屋良家の2冊のみである。肝心の依頼のある名嘉真家の家譜が見当たらない。

だから立ち口(分家筋の初代)は分かるが、その分家筋の初代から明治の初め頃まで途中の歴代の人達が分からない。上も分かる、下も分かる、ただその中間のそれを繋げる歴代の人達が分からないことを、沖縄では「ナカジリ」と言っている。名嘉真家は初代五世と明治ちょっと前の十世までの途中の歴代の人達が名前が分からない。

そこで、その部分をどのように記載するかを依頼主と話した。いわばナカジリの問題をどうするかである。

やり方は二つある。

ひとつは、分からない所は「調査したが判明しなかった」とそのまま記載する方法である。これは裏付ける史料がなければ当然のことだろう。しかし、沖縄の場合、特に平民の系図に顕著あるケースだが、ユタを連れてきて、ユタに判事を出してもらい、そのユタの言った通りに系図を作成してほしいとの要望である。私も3回ほど、現場に立ち合ったことがあるが、霊感のない者には何か一人芝居をみているようであり、「ハイ!、これがあなた達の先祖の名前だ」と差し出されても、こちらはどう判断したらよいか迷ってしまう。自分が見えない、聞こえないから「あなたのは信じられない」と否定できないし、逆に肯定もできない。

私は、依頼人に分からない五代分を、分からないとそのまま記載するか、それともユタを連れてきて、判事を出してもらいユタの判事ではこのように出たと記載するのか、意見を伺った。こちらは既に両方のやり方で、系図を作成しているので、どちらでも対応は可能である。選択権は依頼人にある。ただユタの助けを借りる時は、出張料が1回3万5千円拝み代として出る事を告げた。

依頼人は、自分達のできることは時代考証の含めてしっかりとやり、分からない所はこれからの子ども達への宿題として与えたいと申し出た。こちらも出来る所と出来ない所を明確にして、お客にハッキリと伝える重要性を再確認した思いがする。安易にユタに依頼するのも後に人達に混乱を与えるのでは、と思う。

今、記事を書きながら思い出したが、又吉イエスも湛氏の首里士族ではなかろうか。突拍子もない発言で物議を醸し出している又吉イエスだが、私が那覇出版に勤務していたときに、彼の本を私で編集して出版した。やっぱり沖縄の拝みと深く関わっているような印象をあの当時も受けた。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:50Comments(0)首里士族
 

2012年02月28日

またまた琉球放送の取材を受けました

今日は、琉球放送の取材を受けました。

以前、私の書いたブログで、最近系図を申し込む若者が増えているとの記事が、琉球放送の制作部の目に止まり、是非取材させてくれとの申し入れがあった。そこで読谷座喜味の島袋門中の若者を紹介したが、今日は球陽出版も制作している現場を収録したいとのことで、報道部のスタッフが来社された。

最初、応接間でのインタビューかと思っていたら、系図を作成している現場も収録したいとのことで、急遽パソコンに向かって入力している状況と、何故若者に系図を作成する人達が増えているのかその感想を求められた。

確かに今、20代、30代、40代で系図を作成しようとする人達が増えている。最初は、パソコンを使えるのは若い世代だから、球陽出版のHPの影響で、そのために若者が増えているのだと、単純に思っていた。

しかし、何かが違う。

今まで球陽出版に系図の申し込みは、確かに圧倒的に70〜80代の方々が多かったが、最近若者の申し込みがどんどん増えている。そして今の若者の世代とは、以前の世代とは大きな意識の変化がある。


復帰の頃にも、系図のブームがあった。ただあの頃の県民意識は、沖縄は他府県に比べて劣っている、県産品は劣悪なものが多いとの意識が強かったように思う。私も1974年、1975年東京の千代田区に住んでいたが、自分の出身地を尋ねられた時に、いつも九州と答えていた。「九州はどちらですか、宮崎ですか、鹿児島ですか」としつこく質問する人には、「いや、もう少し南の方です」と答えた。

どうも自分の心の中で、沖縄は遅れているとの意識が強く、胸を張って「沖縄です」とハッキリと言えなかった。

しかし、今の若者は逆転している。聞かれもしないのに「自分は沖縄出身」だと最初からピアールする。他の県人からも一目置かれ、沖縄は何か凄いとの意識が芽生えてきている。お笑い芸人の小島義男さえ、母親が沖縄人だというだけで、父親の出身地でなく、母親の出身地をやたら強調し、自分は沖縄人と答えている。

この意識の変化が系図作成にも、大きな変化として現れてきているように思う。40年前の系図は、自分達の先祖の中の英雄を探し出し、そこに子孫を結びつけようとする傾向が強かった。だから自分達は英祖王の子孫、天孫氏の子孫、○○城主の子孫であるとか、とにかくより古い権威のある人に結びつけ、自分達の子孫の誇りとして共有しようしてきた。

これは県民意識の中に、沖縄は遅れているとの劣等感の裏返しではないだろうか。だから歴史的考証より、どれほど身分の高い人と自分達が結びついているかに県民の関心はあった。

しかし、今系図を申し込む若者の意識は違う。何の考証もなしに、ただ権威ある人に結びつけるのを忌み嫌う。先日注文のあった平良家もそうであった。分からない所は、そのまま空白にして、ハッキリと時代考証ができたものだけを系図には書き入れてくれとの注文である。

それは今まで系図作成では、なかなかなかったことである。今までの世代の人達は、分からない所があれば、ユタに判事を出してでも、必ず結びつけてくれとの注文であった。時代考証より、より権威ある人に繋がっているかに関心があった。

今の若者の意識の変化は、過去の劣等感を穴埋めしようとする考えではなく、単純に自分達の先祖が何をやっていたのか、純粋に知りたいと意識の現れかも知れない。これは自分達のアィデンティティに対する自信と誇りの現れで、過去高校野球で春夏全国優勝を果たした県民の自信が、今の若者の意識に大きく変化をたらしているようだ。  


Posted by 呉屋弘光 at 22:44Comments(0)
 

2012年02月26日

祖先崇拝・ユタ問題公開講演会に参加しました

今日、ぎのわんセミナーハウスで、那覇聖書研究会主催の祖先崇拝・ユタ問題公開講演会があり参加しました。定員に達し次第申し込みを閉め切るとの案内でしたので、私は案内頂いて直に申し込みしましたが、定員を大幅に越える参加者があったのか、予定の席以外にも椅子がずいぶん持ち込まれ、祖先崇拝・ユタ問題に対する関心の高さが良く分かりました。

講演は二部に分かれ、講演1が友寄隆静氏の「なぜユタを信じるか」その後出版30年後の所感として、メッセージが語られました。「なぜユタを信じるか」は1981年に出版された本で、当時一ヶ月で1万部を売り上げ大ベストセラーになり、沖縄中でユタ問題が大きく取り上げられた。それからトートーメ問題にまで発展し、沖縄県内で賛否両論が巻き起こったキッカケを与えた本です。当時は本当に衝撃的でした。30年経ってなお県民の関心が高いことは定員を大幅に上回る参加者をみれば分かります。沖縄の祖先崇拝の基本構造は、位牌、焼香、主婦で構成されており、その三つが重なった所でユタが関わっている。30年経ても基本的には変らない。問題を解決するには沖縄の男性陣が、もっと真剣に位牌、焼香問題に関心を持ち、しっかりした哲学なり神学をもつ必要がある。どうも女性に任せきりにする所にも問題があるのではとの指摘もありました。


そして、講演2部ではユタからキリスト教に改心した金城米子さんの「闇から光へ」と題し、なぜ私はユタをやめてクリスチャンになったのか講演がありました。ブログでは代々ユタの実家に生まれ育ち、ユタの表の顔と裏の顔も赤裸に綴られています。それで米子さんのことはある程度知っているつもりでしたが、今日の話はすべて初めて聞く内容でした。特に末っ子に障害を持った子どもが生まれ、経済的にも精神的にも追いつめられ、一度母子心中で入水自殺を計ったことがある。それまではユタで生計をたて、判事を出し、拝みも依頼があれば沖縄中を廻って、拝んできて、ほとんどの拝所を廻り尽くした。色々な拝みをしながら、自分が拝している神は本当の神ではない、この天地を創造した本当の神が必ずいるはずだと、心の底ではいつも思っていたので、入水自殺を計ったとき、もし本当の神がいるなら、自分は死んだら地獄におちてもいいが、この子は地獄には落とさないでくれと、天地創造の神に直談判し、海に飛び込んだ。すると海に沈む事無くすぐに浜辺に打ち上げられた。

目が覚めると、暗闇の中から十字架の光が見え、「貴方は本当に私にお願いしたいのか」との声ならぬ声が聞こえた。そこで米子さんは恐る恐る「貴方は誰ですか」と尋ねた。すると「私は、ありて有るものである。」との言葉が返ってきた。

私はその話を聞くと身震いがした。

「私は、ありて有るものである。」とは聖書に出て来る天地創造の神です。ユダヤ人がエジプトで奴隷生活をしていたとき、彼らの解放者モーセをシナイ山に呼び出した天地創造の神で、モーセも燃え盛る柴の炎の中から呼びかける声を聞き、「あなたは誰ですか」と尋ねた。そのときに返って来た神の言葉が「私は、ありて有る」ものである。

考えられますか。3600年前にユダヤ人の前に現れた神が、9000kmも離れたこの小さな沖縄のユタに声をかけたということを。そのユダヤ人の前に現れた神と、2000年前にイエスの前に現れた神も同じ神で、生きて働く神である。私は米子さんほど追いつめられた体験はないが、「おきなわルーツ紀行」の本を発行したとき似たような体験をした。

神は死んだ神ではなく、私の話しを聞き、そして問題の解決策もすべて持っておられるという体験をした。その時、その神とは、聖書で書かれているユダヤ人とイエスの前に現れた神とは、同一の神だと私もその声なき声をハッキリと聞いた。だから米子さんが「ありて有るもの」との言葉には正直ビックリした。

私だけではないんだ。ここにも私と同じ体験を持つものがいる。非常に嬉しくなった。そして米子さんの話を聞きながら、ユダヤ(イスラエル)と沖縄の動きが連動しているように思えてきた。

今、イスラエルで新たな動きがある。メシヤニックジューの人達の台頭である。メシヤニックジューとは、ユダヤ人でありながらキリストを受け入れる人達である。今までユダヤ人達は「キリスト殺し」を汚名を着せられ、多くの迫害を受けて来た。ホロコーストがその最たるものである。だからユダヤ人達は、キリスト教徒になるにはユダヤ教を破棄することを求められた。そしてユダヤ人達はユダヤ教を捨ててキリスト教徒になった。

しかし、ここにきてユダヤ人がユダヤ教を信じたままキリストを受け入れる人達が出て来ている。聖書は旧約と新約から成り、旧約はユダヤ人の歴史書で、新約はイエスの歩まれた歴史が綴られている。本来はひとつであるべきものが、旧約も新約もそれぞれ2つに分かれている。即ち旧約のイスラエル王国はソロモン王朝以後南北に分かれた。そして新約のキリスト教も東西に分裂した。言うならば聖書は旧約新約を通して東西南北に分かれている。

東西南北に分かれた神の歴史が、今再び神によって一つに結び付けられようとしている。

イスラエルと沖縄、何の関係もないように見えるが、イスラエルに顔を現した神が、この沖縄に声をかけている。そして沖縄のユタに現れて、「私はありて有るもの」と神ご自身が何者かを明確にしている。ここに何も無いというのがおかしいのではないだろうか。少なくとも私も米子さんと同じ声を聞いてた。おそらくこれから続々と沖縄の神人、ユタ、ノロにも神の声がかかるのではないだろうか。

そして、メシヤニックジューのように、沖縄にもユタニックジューがこれから台頭してくるのではないだろうか。ユタでありながら、キリストを証する人達がどんどん出て来るだろう。

これは東西南北に分かれた神の御体をひとつにする運動が着々と進んでいるように思えてならない。

米子さんはイスラエルの神、天地創造の神に出会った喜びを上い口説に合わせて、踊りも披露された。  


Posted by 呉屋弘光 at 23:29Comments(2)お知らせ
 

2012年02月25日

基本に立ち返る

今日は、中川健一牧師の再臨待望聖会が沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」であり、参加しました。去年の第2回聖会も参加しましたので、私にとっては二度目の参加です。メッセージの内容は「基本に立ち返る」という事でした。参加者は去年より少し少ないように感じました。

会場では、ムーン理枝先生、金城米子さん、瑞慶山良弘さんをはじめ宮古バプテスト教会の方とも挨拶を交わしました。去年、初めて参加したときは見知らぬ人ばかりでしたが、今年から少しづつ知り合いも増え、横の繋がりも増えました。特に宮古バプテストの教会員の方には、昨年洗礼を受けたときに一方ならぬお世話を頂き、懐かしく思いました。私と一緒に洗礼を受けた根間さんも、教会で活躍しているとの話を聞き、本当に嬉しくなりました。私にとって宮古は心の古里になっています。自分の親兄弟、家族がいるような気がしています。

今日のメッセージの中で、去年の東日本大震災の後、世の中の動きが急速に変わりつつあることが語られました。大震災の後と前では全く違う、人々の考え方に大きな変化が見られる。それは別の角度から見ると試練の時である。多くの日本人が「もし神がいるなら、何故このような悲劇が起こるのか」という問いかけを発している。

もしそこに神を見失うのであれば、日本には希望がない。残念なことに今の西洋キリスト教は神を見失い、人々に希望を与える事ができなくなっている。今までキリスト教は絶望の淵にあっても、絶えず神を見出し、そこに希望を見つけ、人々に希望を与えて歩んできた。

しかしながら、今の西洋神学には「苦難の神学」がなく、苦難の意味を喪失している。物質主義や成功哲学に影響され、表面的な目の前の出来事に翻弄され、物事の本質を完全に見失っている。即ち、試練の時こそ神を見出すときであり、苦難や試練は一人一人の品性を練り、私達を完成に導くものだ。即ち苦難・試練を通して栄化(神の栄光が顕現する)がある。

聖書に登場する人達は、すべて試練・苦難を乗り越えて、そこに神を見出し、神の恵みを受け取っている。試練の時こそ我々は喜び、恵みがあることを固く信じて歩むべきだ。アブラハムしかり、イサクしかり、ヤコブしかり、契約の民の先祖がすべてそうであったように、我々も信仰をもって歩むべき時である。安易なHow toもので、その場しのぎ、小手先だけで窮地を乗り越えようとしても無駄だ。今は信仰が試されている時であり、それは恵みが近いことを意味しているのだ。

語られる中川牧師のメッセージは非常に力強いものがありました。神学なき信仰はなく、信仰なき神学もないことを改めて教えられた気がします。牧師の話を聞きながら、社会をリードすべき多くのクリスチャンがマブイを落としていると感じました。キリストの本来持っていたマブイ、魂を無くしています。

私も、もっと信仰を深めてマブイを落としているクリスチャンに、中川牧師のようにマブイクミーをできるようになりたいと真剣に思いました。幸いなことに35年沖縄でユタをして、今はキリストに改心した金城米子さんとも知り合いになれたので、これから信仰の先輩として色々と教えてもらおうと思った。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:04Comments(1)キリスト教
 

2012年02月24日

系図はジグゾパズルのピースをはめていくようなもの

新規の系図の申し込みがあり、本日契約書を交わしました。

依頼主は平良家で、自分達は親から士族だと聞かされ、名前の最初に「幸」の字が代々ついているが、調べてくれとの事だった。調べてみると士族で名乗り頭に「幸」の一字が使われている平良家は、泊士族と那覇士族の両方にあった。泊士族では新参政氏と、那覇士族の習氏である。

泊士族の平良家は家譜数も少なく1冊しかなく、那覇士族の平良家は全部で15冊もある。家譜数が多いということは、それだけ子孫も多い事を意味する。最初相談を受けたとき、門中には平良姓しかないと思い、泊士族の平良家の新参政氏ではないかと、お答えした。

しかし、よくよく話を聞いてみると同じ一門には国場家があり、小嶺家があり、具志家もあるという。同じ門中で複数の家名があるならば、泊士族でなく、那覇士族の習氏だと判断した。

やはり、そうであった。

球陽出版で発行している士族門中家譜に書かれている習氏の部分は、すべて親から聞かされていたのと一致しているとの事。それで自分の代で分かる分は整理して記録として是非残したいとのことだった。私は仕事の関係上、平良家で名前は「幸」で統一されていると聞けば、、それは習氏だとピンとくるのだが、本人は本を見て初めて自分達が那覇士族の習氏だと知ったという。

こちらでは当たり前だと思っている事も知らない人もいるのかと、不思議な気持ちにさせられた。

検索ソフトを使って平良家で「幸」の字をもつ名前の人は約250件ほどある。平良家で幸の字のつく系統は、泊士族、那覇士族両方にあり、那覇士族にはさらに2つ系統が平良姓を名乗っているので、依頼人のルーツに結びつく系統は240の約3分の1、80所帯が依頼人の門中に繋がるだろう。

本日、平良家と契約を交わしたので、これから一軒一軒電話で平良家の各所帯に連絡を取って、依頼人と結びつく人達を探し出す気の遠くなるような作業が待っている。約半年、場合によっては調査は一年以上続くかも知れない。

依頼人は私に言った。

「系図はジクゾパズルのピースひとつひとつを埋めていくようなものだ。分かるものと分からないものをハッキリ区別し、分からないものは、そのままにして空けておきたい。言わば未完成であっても、それを精魂こめて、後孫に引き継げは、それを引き継いだ人達が完成させようと必死にルーツを探しあてるはずだ。いたずらに結論を急ぎ、ユタに頼み、合っているのか確認もないままに後の人に引き渡したくない。」

全くおしゃる通り、系図は結論を急いではいけない。代々の引き継ぎを親から子、子から孫と正確に引き継いで、ピースも一つ一つを皆で協力して、埋めていく作業だと思う。そこにこそ一族の一体感が生まれると思う。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:01Comments(0)那覇士族
 

2012年02月22日

第3回再臨待望聖会沖縄大会





中川健一牧師の第3回再臨待望聖会が来る土曜日(25日)に「てぃるる」1Fホールで開催される。

私も去年初めて参加し、キリスト教を知るキッカケとなったので、是非お勧めしたい。

この聖会がキッカケで私はキリスト教に触れ、去年の暮れにはキリストの福音を受け入れ洗礼も受けた。

通常、洗礼を受けるには教会に2〜3年ほど通い始めて、初めて牧師から「そろそろ洗礼を受けてはどうか」との声がかかり、受洗するケースが多いとの事だが、私は一度もどの教会に通った事がないのに、キリストの福音が理解できたから洗礼を受けたい教会に申し入れた。

再臨待望聖会との出会いから、ハーベストタイムの働きを知り、聖書を少しづつり学び始め、キリストとは何かを知り、その証として、是非洗礼を受けたいと純粋に思うようになった。

ただ最初の頃は、キリスト教について何の知識も無かったので、去年第2回再臨待望聖会に参加したときは、メシアニックジューの話しを聞いていると、非常に頭が重くなり、終止眠気との戦いであった。帰り際に会場で販売されていた出エジプト記のCDを買い求め、50枚を全て聞き終えて、キリスト教はもともとユダヤ教がベースになっていることを知った。

そしてユダヤの民が選民とされるのは、天地創造なる唯一の神がユダヤの民に顕現されて彼らと契約を交わされた事によるという事も知った。神は死んだ神ではなく、生きてこの世に働かれる神、神は契約を忠実に守られ、交わされた契約はけして破棄されることはないとうことも教えられた。

それまで私が持っていた神概念は「困った時の神頼み」の言葉のように、何か困った時、疾風のように現れて、問題を解決し、疾風のように去って行く、まるで月光仮面のような、正義の味方的な神をイメージしていた。

これは実に虫の良い話しで、神を自分の必要なときに呼び出して、問題を処理させる、いわば神を自分の召使いの如く考えている発想であることに気づかされた。これが異邦人のとらえる神だと知り、契約の民とは、神概念が全く違うというのを知った。

契約の民の神は、神ご自身が彼らを呼び出し、彼らにメッセージを与えて、約束を交わし、全知全能の力をもって、積極的に働かれる神である。どこかの神殿にただ鎮座し、人間の介護を必要とする神ではないのである。

私は今までキリスト教に関する知識は全く無かったが、中川牧師のCDをほとんど買い求め、それを勉強することによって、旧約と新約の違い、新約の奥義が何であり、キリストの説く救いが何であるのか、自分でも不思議なくらい、明確に理解できるようになった。

メッセージステーションの聖書の解読も毎朝聞くようになり、六ヶ月後には洗礼を受ける決意をした。

そして去年の11月27日には、宮古バプテスト教会で洗礼を受けて、キリストを受け入れ、クリスチャンとなった。

この短期間に導かれたのは、中川牧師の再臨待望聖会がきっかけであった。
私は再臨待望聖会に参加して初めて、中川牧師が24年間テレビ伝導をやっておられた事も知った。
日本にこれだけ聖書を熟知し、聖書の知識が無いものにも、ハッキリと理解できるように導く人を、神は準備していることに本当に感謝である。

是非、一人でも多くの方が参加されることを祈っています。
スケジュールは次の通り。

日本の霊的覚醒
ユダヤ人の救い
メシヤの再臨

第3回再臨待望聖会in沖縄
日時 2月25日(土)AM10:30〜15:30
場所 沖縄男女共同参画センター
   「てぃるる」1階ホール
   那覇市西3丁目11番1号
   ☎098-866-9090

モノレール:県庁前下車→バス:パレットくもじ前より市内線(1・2・5・15番)市外線(45番)→三重城バス停下車  


Posted by 呉屋弘光 at 21:14Comments(4)お知らせ
 

2012年02月16日

家系調査も度が過ぎると口難・口事が立つ

「口難」「口事」クチナン・クチグトゥという言葉を聞いたことがあるだろうか。私も先日初めて耳にした。最初は何の事を言っているのか、チンプンカンプンで意味不明であった。話しを聞くうち言わんとする事は少し理解できた。要するにこうである。

やらなくてもいいことに、あえて手を出し、そこに近づくなと警告の意味をこめて、あの世からこの世の人間にサインが送られる事らしい。サインを受け取ったものは体調不調になったり、数々の病気に悩まされるとの事だ。言わば「触らぬ神に祟りなし」の沖縄口だろうか。

今、首里士族の馮氏の家系を調査中だが、依頼人の積極的な支えがあり、今まで門中で断片的に語られず、その全容がなかなか掴めなかった事が次々と明らかになってきた。そして一冊の系図として完全な形でまとまりつつある。

しかし、ここにきて家族から苦情がきた。苦情は家族で話し合い、母親が代表して私に言った。

母親「私の主人は今まで何一つ病気したことがないのに、貴方と一緒に系図を調査するようになってから、体調を崩し、救急で五回も病院に運ばれた。これは何かがあるから、調査は中止した方がいい。これは何かの祟りだ。各チネーそれぞれ何かしらの問題を抱えており、それを表沙汰にされたくないから、私の主人が病気になったするのだ!これは先祖からの警告で祟りだ。」

それはないだろう!貴方の主人が「夢に先祖が毎日現れて系図をつくるように促されている」と私の所に相談に来て、私もその熱意にうたれて、毎週火曜日に一緒に歴史博物館に行ったり、役所に行って戸籍を集めたり、元屋や分家も一軒一軒廻って位牌を確認したりしているのであって、先祖から祟りを買う為に調査をしているのではない。祖先を正しく子孫に伝えるためにやっているんだ、と思いつつ黙って、奥さんの話しを聞いていた。

すると、主人が口を開いた。

「祖先のために自分はやっているという自信があるから、その祖先が私に祟りを与えるとは考えられない。あり得ない。しかし、家族からこのような声があることは口難・口事が立っているということだから、調査は一旦中止し、今まで調査してきたことを振り返って整理することにしよう」

話しは一件落着した。

馮氏の諸見里家の方々は本当に幸いである。諸見里安栄さんが命がけで、救急で何度も病院に運ばれながらも、集められた資料がもうすぐ完成する。もし諸見里家の方で完成した家譜をご覧になったかたは一言「本当ご苦労さま」と声をかけてほしい。そこには今まで知り得なかった数々の史実が綴られている。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:24Comments(0)首里士族
 

2012年02月15日

琉球放送報道制作局より取材を受けました


読谷村座喜味の島袋門中から系図作成の依頼があり、今調査がどんどん進んでいる。依頼主は門中の一番新しい分家筋・新屋島袋の娘・仲代千咲さん。千咲さんは自分の実家の島袋門中のルーツが知りたいから是非作成してくれとの事だった。最初お会いしたときは、年が若く見えたので、門中のを若い娘が大丈夫かな、作れるのかと不安もあったが、行動が非常に早い。あれよあれよと言う間に、門中全体の戸籍を集めて、自分達の先祖に読谷の総地頭職を務めた人がいたことまで突き止めた。

話しを聞いてみると、以前に門中で系図を創ろうとしたが、最終的どうまとめていいか分からず、そのままになっているとの事。だから自分の代でどうしても完成させたいとの事であった。その熱意がこちらにすごい迫力で伝わって来る。私は嬉しくなり、すぐにブログでそのことを取り上げ、系図の申し込みに変化があり、以前は70〜80代の方の申し込みが多かったが、今は20代、30代、40代の人達の申し込みが増えてつつあることを記事にした。

記事を読んだ琉球放送報道制作局より電話があり、気になるから、是非内容を知りたい、できれば系図依頼者の若者を紹介してほしいとのことだったので、私は迷わず仲代千咲さんを紹介した。

毎週水曜日は直接会って、集めた資料を整理しながら作業を進めているが、その作業を進めている模様を琉球放送が今日取材した。

千咲さんとは何度も会って、島袋門中の聞取り調査をしているが、今日は琉球放送がきたとの事で私も初めて名刺を頂いた。名刺の肩書きを見て驚いた。まだ若いと思っていたが、肩書きには琉球箏曲興陽会師範、野村流音楽協会師範とあり、沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻卒業とあり、さらに同大学の大学院舞台芸術専攻卒業とある。

これらの経歴を見ながら、千咲さんの門中のルーツ探しの熱意は、ミーハ的な浮ついた気持ちでなく、本当に学問に裏打ちされた真剣なものであることを知らされた思いがする。

沖縄のルーツ探しも大正・昭和世代から平成の若い世代に確実に受け継がれているよう気がして、沖縄人としての誇りを感じるひと時でもあった。

本当に今、沖縄に新しい風が吹き込まれてつつあるような気がする。

来る清明祭には、東京生まれ東京育ちの法政大学大学院の学生が、沖縄の門中に関心があるから私の門中を取材させてくれと依頼を受け、本家の当主とも相談して受け入れることにしている。これからどういうこと展開するか、毎日がワクワクする日が続いている。  


Posted by 呉屋弘光 at 22:31Comments(0)
 

2012年02月05日

決断したらまず行動を

系図を作成するには、まず決意を固めることから始めたほうが良いことは既に紹介した。普通は戸籍を集めるとか本家に行って先祖の由来を聞取り調査することを、まず考えがちだが、けしてそうではない。遠回りに聞こえるかもしれないが、以外とこれが近道である。けして、無駄に終わる事はないし、逆に系図を本当に作成できるかのヒントが隠されている。

何故なら人間の脳のしくみを考えたら、良く理解できると思う。人間の脳には自動誘導メカニズムが備えられている。ちょうどカーナビのように、目的地と現在地を入力すれば、自分が進むべき方向を指示してくれる。その指示に従って進めば間違いなく目的地にたどり着く。迷う必要はない。目的地と現在地が正しく入力されているかだけを確認する。

これは私が過去120件ほどの系図を作成して分かった事のひとつである。系図を作成しようとしても、数々の障害にぶつかる。それらの障害を一つ一つ乗り越えていくためには、適切な指示が必要である。決意がハッキリと定まっておれば、いかなる障害物でも難なく乗り越えることができる。

ちょうどミサイルに取り付けられた誘導装置みたいなものが、人間の脳にも備え付けられている。目の前に障害物を発見すると、軌道修正してそれを避けて確実に目標にたどり着くように、決意が固まると、自然に何が必要か、今何をすれば良いのか、明確なアイデアが湧いてきて、必ず行動に駆り立てる。

系図を作成するときに、まずやるべきは決意を固めること、何故系図をつくるのか、その理由をどんどん紙に書き出し、毎日目につく所に置き、時間があれば、定期的にそれを見ることだ。

それを習慣づけておくと、ある時点に達した時に決意が決断に変る。決断とは過去のしがらみを完全に断ち切る事である。このしがらみを断ち切らない限り、なかなか行動できない、実行に移せないのである。決断がない人は、いつも何故できないかに意識を集中させる。「お金がない…」「知識がない…」「まだ若い…」「どうせ無理…」等々である。

これらのしがらみを断ち切る一番の良い方法は、逆に何故系図を作るのか、そこに意識を集中させることである。毎日5分でも、10分でも心を落ち着けて、自分自身に問いかけてみる。「何故貴方は系図をつくりたいのか!」自分自身の心に真剣に聞いてみるのである。

それを習慣化すると、自然に過去のしがらみから解き放たれて、本当に不思議なほど次々とアイデァが湧き、いてもたっていられなくなる。カーナビが音声で誘導するように、あるいは画面上でアイコンが指示するように、今何をすればよいか明確になってくる。そしてその閃きによって行動すると、相手もそれを待っていたかのよう共感してくれる。私はそれを何度も体験した。

どうしょうかと思い煩うのでなく、決断できるなるまで、自分の心に正面に向き合い、絶えず自分自身に問いかけることが最も大切な事だ。そうすれば自然と無理なく行動できるようになる。

いつも思い煩ってなかなか行動に移せない人は、人間の脳には自分が定めた目標に誘導してくれるメカニズムが備わっていることを思い起こしてほしい。何をどうやろうかではなく、それらはカーナビに任せて、自分がやるべきは目標をハッキリ定めて入力するだけであることを、あとは自然に行動できることを。  


Posted by 呉屋弘光 at 09:11Comments(0)系図作成に必要なもの
 

2012年02月04日

系図作成に必要なもの

昨日、読谷村座喜味より系図作成の相談の電話があった。このような問い合わせは毎日2〜3件あるが、これは球陽出版を立ち上げてから約6年間続いている。1日も途絶えることがない。ちゃんとした記録はとってないが、年間1,000件前後の相談を受けている。

昨日の相談の内容は、「自分は女であるが、女が作成していいのか」「実家には知らせないで、自分だけで作成したい。改制原戸籍も取ったが、自分から4代上までしか記載されてない。できればさらに2代上まで遡って知りたいが、調査可能か」という事であった。

「女が系図を作成してもいいか」という質問の背景には、門中の系図が男性中心の系図になっているから、女性である自分が男性を差し置いてやっていいのかという意味合いが込められている。

そこで、私は答えた。

「系図作成は、性別は関係ありません。また年齢も関係ありません。あるいは学問があるか、即ち知識が豊富で系図について良く知っているかも関係ありません。またお金があるかも関係ありません。私の今まで系図を作成した体験からすると、その門中に誰か系図を作成したいと、本当に思っている人がいるかが決め手です。それも人数も関係ありません。一人でも是非系図を作りたいと考えている人が一人でもいれば、必ず作成できます。」

普通、系図作成に迷いがある人は「自分達は本家でもないのに……」あるいは「自分は二男、三男であるのに…」「お金のゆとりがないのに…」とか色々と考えてしまう。

即ち、何故できないかという理由をまず先に考えてしまう。それでは系図はけして作成できない。実際問題、私が接してきた人達をみると「本家、二男、三男、知識、お金」はほとんど関係なかった。本家が作るべき、お金がある人が作るべき、長男系統が作るべき、男性が作るべき、知識のある人が作るべき、とは全く関係なかった。

要はその門中の中に、誰か一人でも、系図を作成したいと本当に考えている人がいるかどうかである。不思議なことに、誰かそういう決意をもつと、自然にその人を中心に、お金も、知識も、たとえその人が年若くても、それをサポートしてくれる人たちが、必ず出てくる。これは系図を作成しながら、私自身がいつも不思議に思うことである。

東京に祖父の代から移住している渡嘉敷家の場合もそうだった。依頼主は孫の30代の若い女性である。祖父はあの有名な黒澤明監督とも親交のある人で、芸術に恵まれた家系であった。本人自体も俳優として、一時期活躍してきた体験を持つ。父は東京生まれ、東京育ちなので、門中のことはほとんど知らない。ウマチーって何、清明祭って何、と沖縄人であれば誰でも常識的に知っていそうなことまで平然と尋ねてくる。それも真剣に尋ねるから、こちらも疲れる。そのような状態であるから、系図も本当に作成できるか不安だった。

しかし、そういうやり取りをやっている時に、不思議なことが起こった。こちらは1日も早く契約を交わして、調査を進めたいのだが父親にはその意識が薄い。その父が、あるとき仏壇の中を色々と整理したら祖父の遺品が出てきた。その中に茶封筒があり、中を見ると現金が10万円入っていた。父親はビックリして娘に電話をして、「祖父の遺品の中から現金が出て来た。これは系図を早めに作成せよということかも知れないから、この金を使って、すぐに契約書を交わして、系図を作成しなさい」と娘に指示した。

本人達は別に金がない訳ではない。裕福な家庭で育っているので、お金も恵まれた環境の中にある。しかしながら僅かな契約金の支払いを躊躇する。即ち行動が取れない。

私は系図作成の契約書を交わしたときに、「これからは貴方を中心に系図に関する色々なものが集まってくるから、注意深くしてほしい。」旨を伝えている。

これは実際に系図を作成してみれば、分かる事だが本当にそのような事が起こる。私がそのような話しをすると「ユタ物言し」と、軽く受け流す人もいるが、しかし、実際に系図を作成すれば、私の言わんとすることは必ず理解できるはずである。

系図作成に必要なものは、金でも知識でも本家筋でも分家筋の問題でもない。是非系図を作りたいという決意だけが問題である。その決意さえあれば、具体的な環境は必ず整えられてくる。意識が変れば、それに伴って環境も必ず変ってくるのである。

だから、ここで系図を作成したいと思っている人に提案したい。

貴方の置かれている環境がどのようなものであろうと、環境は別に関係ありません。問題なのはあなたの意識です。貴方が是非作りたいと思えばそうなるし、無理だと思えば無理だという状況が貴方の目の前に展開する。これでもか、これでもかと貴方の目の前に迫ってくる。意識をどこに集中させるかによって、状況は変る。問題は貴方の決意次第だ。

決意を集中させるには方法がある。

大学ノートを準備し、何故自分は系図を作成したいのか、その理由をひとつひとつ全部書き出してほしい。多くの場合、ああ系図を作りたいと単なる思いつきに終わってしまう。それでは決意は固まらない。何故つくる必要があるのか、何故作らなければいけないのか、その理由を考え意識を集中し、できれば100個ぐらい書き出してほしい。そうすれば意識がより鮮明に明確になる。それが土台となり少しづつ道は開けてくる。確かに骨の折れる仕事だが、1日2〜3個でもいい。毎日継続していけば、一歩一歩前進し決意も固まる。

お金がない、誰も協力的でない、知識がないとかを考えるのでなく、何故自分は系図を作成したいと思っているのか、その理由をひとつづつ書き出す事によって決意が固まってくる。決意が固まらない限り、最初の一歩を踏み出す事はできないのである。  


Posted by 呉屋弘光 at 10:32Comments(1)系図作成に必要なもの
 

2012年02月02日

うるま市与那城西原玉城門中の聞取り調査しました。

系図の依頼主は与那城辺の中村さん。定まった名乗り頭を持ってないから平民の系図のように思えるが、一門が昭和27年に作成した玉城按司系図によると、英祖王の親にあたる恵祖世主が元祖とされている。

英祖王出てくると私としては非常に困る。何故なら私が作成している沖縄の伝統系図とは、1689年に琉球王府に系図座ができた頃作成された家譜をもとに系図を作成しているからである。英祖王は1229〜1299年に活躍した人物で、系図座ができた1689年から約400年遡った人物である。実在を裏付ける文献がほとんど見当たらない。

琉球王朝ですら十代遡ってしか系図を作成してない。系図座ができたのは尚貞王21年であり、第二尚氏の11代目の国王の時である。王家でも十代しか遡ってないのに、平士族はせいぜい4〜8代ぐらいしか遡って系図を作成してない。具体的な年代でいうと1500年代から始まるのか、普通一般的な系図である。だから私の作成している系図は約500年の歴史しかない。

もし英祖王から始まると、さらに200年遡ることとなり、700年の調査となる。今のところ私の調査では無理だ。だいたい英祖王を持ち出すのはユタの方々がほとんどである。彼らは、直接その霊を見て声を聞くことができるから、彼らにとっては問題はないが、霊感のない私にとっては、検証のしようのないもので、非常にややこしい。

以前に2回ほど名前の分からない先祖を、宜野湾の玉那覇有安ユタに来てもらい、火の神の前で判事を出してもらい言い当てたもらったことがある。しかし。たとえユタの側に立ち会っても、こちら側からするとユタの一人芝居を見ているようで、「はい、何代の前の先祖の名前が判明した」とメモを渡されても、それがあっているかどうかの判断ができず困った。相手は自信たっぷりに話すから、こちらも「ああ、そうですか」とそのメモを受け取ることしかできない。私の作っている伝統系図に記入する時も、「玉那覇有安ユタに判事してもらったら、こういう結果が出ていました」とただし書きを入れて紹介した。

英祖王まで結びつけられている系図を、どのように検証すればよいか模索中ではあるが、与那城西原玉城門中は明治に入る直前に、具志川豊原の与儀屋(ユージヤ)からの分かれだということを聞いていたので、今日はユージヤーの元祖を預かる与儀良光さんを訪ね、ユージヤーの元祖のことについて貴重な話を伺うことができた。

明治前後の門中の動き、系図座が出来た頃の門中の歩み、さらにそれから400年遡って元祖英祖王との繋がり、確認すべき内容がまたまだいっぱいある。

ただ今日、良光さんにお会して、やっぱり門中の中には、門中の記録を大切に保管して持っている人がいることが確認でき、意欲がますます深まって来た。  


Posted by 呉屋弘光 at 21:05Comments(0)平民の系図
 

2012年01月31日

ライフセンターの移動書店が、うるま市具志川に来ます

私がキリスト教に関心を持ち始め、キリスト教関連の本を買い求めるために通ったのがライフセンターである。那覇店と牧港店にはよく通った。当初キリスト教に対する知識が全くなかったが、2010年に一人のクリスチャンに出会い、「おきなわルーツ紀行」を発行することになり、キリスト教を勉強するつもりで、キリスト教関連専門の書店に何度も足を運んだ。

福音書のDVDを買い求めて、初めてイエスの生涯がどのようなものだったのか知ることとなった。今まで「おきなわルーツ紀行」の著者である与儀喜美江さんにイエスの十字架とは、どういう意味があるのか何度も尋ねたがなかなか納得のいく答えが得られなった。「私はイエスの十字架によって救われている。人生が180度転換した」の一点張りで、それがどういう事を意味しているのか、宗教に対する知識が乏しい私には全く理解できなかった。

本を発行するなかで、彼女の性格が少しづつ理解できるようになり、この人はけして嘘をつく人ではない、あるいは自分の見栄で行動する人でもないことを感じていたので、「この人の言っている神とは何だろう?天地創造唯一の神とは、我々が考えている神とは違うのだろうか」と色々と関心を持つようになり、ライフセンター(キリスト教関連の専門書店)に通いはじめた。買い求めたDVDを何度も繰り返し見るようになり、ようやく新約の福音が何かを理解できるようになった。

去年の11月の暮れには洗礼も受けクリスチャンとなった。洗礼を受けて初めて、今までクリスチャンに対する偏見が自分の心の中にあり、それゆえに福音の奥義が理解できなかったということが、今なら良く分かる。私の場合は仕事の関係で、クリスチャンとの出会いあり、その人達の生活を通してキリストを知る機会を与えられたが、偏見をもつことなく接するには、その方々と何度も触れ合い、それらの書籍を手にすることではないかと思う。

私が知っているキリスト教関連の専門店は那覇と牧港の2店舗しか知らないが、来月の初めにライフセンターの移動書店がうるまバプテスト・コミュニティ・チャーチに来る予定になっている。日程は次の通り。具志川の方々、是非キリストに触れる機会をつくって、足を運んで下さい。皆さんのお越しを心よりお待ちしています。




ゴスペルボックス移動書店・営業予定

日時:2月6日(月) PM6:00〜8:00
場所:うるまバプテスト・コミュニティ・チャーチ
   うるま市安慶名1035番地 ☎080-3952-3635
定期集会
 主日礼拝 日曜日 AM10:00〜PM12:00
 聖書勉強 木曜日 AM10:00  


Posted by 呉屋弘光 at 07:59Comments(0)案内
 

2012年01月28日

琉球放送 報道部より連絡がありました

先日、琉球放送報道部制作室より1本の電話が入った。

電話の相手は制作室の比嘉さんで、幸地腹門中の取材をして、門中に関心を持つように、たまたま球陽出版のHPを見て、代表者のブログの中に最近若者の系図の注文が増えているとの記事が気になり、是非細かい内容を聞かせてほしいとの事だった。

私も最初は昨年HPをリニュアルしたから、パソコンを自由に使える若者に依頼者が増えて来たのか思っていた。

確かにその一面もあるが、冷静に判断すると門中に対する関心が長老の方より若者に確実に引き継がれているように思える。

私の門中は西原町の仲伊保門中で三山分立時代の北山の最後の王・攀安知の三男系統の子孫だと言い伝えられている。
1992年に初めて門中会を結成し、系図の作成が始まった。本家の大城栄徳さんが「首里城が復元された年に門中会も結成され、系図も作成されたということであれば、門中の方々にも覚え易いから」と一門を納得させ、門中会の結成と系図の制作に取りかかった。

沖縄は1972年に本土復帰し、満20年の国の特別事業として首里城が復元された。そしてその年に、NHKの大河ドラマに「琉球の風」も決定され、沖縄のブームが起こる前兆を感じた。沖縄が本土に復帰することにより、逆に沖縄のアイデンティティが何か問われ、沖縄人自身が自分自身を足下を見つめるようになった時期だったように思う。

当時、私も30代後半40手前であったが、門中で事務局長を任され、本家の幹事長大城栄徳さんと一緒に分家の一軒一軒を訪ねて、全て聞取調査で、系図を作成した。門中とは何かも良く知らない中で、図書館に通い、門中の神人と一緒に拝所を廻りながら、拝所の由来を記録して、門中の系図としてまとめた。

一門からはとても喜ばれ、「絶対にできないと思っていたのによく頑張った。貴方は若いのによく頑張った。本当に偉い」とお褒めの言葉を数々頂いた。今、球陽出版のHPの内容もその時に調べた内容が基になっている。士族門中と平民門中の区別も、その時の体験がもとに分かるようになった。

私が作った門中の系図を見て、是非自分達の系図も作成してくれとの声が他所の門中からもかかり、士族平民の区別なく門中の系図をつくるようになり現在に至っている。

今年は復帰40周年を迎え、20年前に沖縄のアイデンティティが問い直されたように、沖縄人が沖縄とは何かを見つめ直す時期がきたのかなと、球陽出版に系図を依頼する若者をみて思う。

20年前は今の70〜80代の人達が中心になって沖縄とは何かを探ってきたが、今、球陽出版に系図の依頼に若者20〜30代が増えているのは、新しい時代の到来の日々感じさせられる。今、球陽出版に系図の依頼にくる若者は、本当に純粋で、自分のルーツを正しく本当の姿を知りたいとの一心で訪ねてくる。

私も30代後半に門中に関心を持ち、1年近く本家の人達と各分家を訪ねて、門中のルーツを探り当てたが、今まさに過去の経験が活かされる時がきているようで、嬉しく思っている。

今年復帰40周年でどのような沖縄ブームの再来になるのか楽しみだ。  


Posted by 呉屋弘光 at 20:44Comments(2)お知らせ
 

2012年01月27日

祖先崇拝とユタ問題

スピリチュアルというブログのトップページに「35年間ユタをやっていて、キリストに出会い改心してクリスチャンになった」という謳い文句に引かれ、投稿された記事を読むと、これがなかなか面白い。本人のユタ時代の色々な体験談も紹介されており、私も去年の暮れに宮古バプテスト教会で洗礼を受けクリスチャンになった関係で、この方の信仰生活が知りたいと思い、オーナにメールしたらすぐに連絡がとれ、色々と話しを伺う機会を得た。

沖縄ではユタの力は根強いものがある。ほとんどの人が祖先崇拝を自分達の宗教だと信じている。そのため「ユタ半分、医者半分」という言葉が示すように、祖先崇拝の大きな支えになっているのがまさにユタの力である。

「貴方の何代前に不足がタチョンドー」(何代前の先祖の供養がなされてない)と言われ、ビンシー片手に拝み出かけ、先祖の供養をすることとなる。それが色々な災難・祟りから逃れる道だと教える。

しかし、元ユタだったこの方の話を聞きながら、キリストの神と沖縄人の考える神は全く違う神であることを発見した。

沖縄人は先祖崇拝の神も、天地創造のキリストの神も、同じ神ではないか、考える人が多い。

しかし、実際はそうではない。

キリストの十字架上での拝みと、ユタの拝みと方向性が全く逆である。

ユタが勧める拝みは、自分達に祟りが降り掛からないようにと祈願する。

キリストの祈りは、
祟りは全部自分一人だけに降り掛かって、
それを自分が喜んで受け取るから
他の人に祟り、呪いにかけないでくれ!
と祈願する自己犠牲の祈りである。

自分を犠牲にしても他の人を生かす。

それが神の愛であり、それを体で表現したのがイエスキリストの十字架である。

私も洗礼を受けるまでは
キリストの愛が何であるか
全く理解できなかった。

新約の福音が何を意味するのか
理解できるようになって
キリストの愛、天地創造の全知全能の神の愛が理解できるようになった。

元ユタの方の話しを聞きながら
謙虚に耳を傾けると、ユタの本来果たすべき役割が何か
見えてくるような気がした。

そこで、祖先崇拝・ユタ問題 公開講演会が開催されますので
関心ある方は、是非参加下さい。

      祖先崇拝・ユタ問題 公開講演会

講師と演題
 1、「なぜユタを信じるか…その後」
  出版から30年後の所感
  講師  友寄隆静
 
 2、証言「闇から光へ」
  なぜ私はユタからクリスチャンになったのか
  ユタ歴30年余
  講師  金城米子


日時:2012年2月26日(日)14:00〜16:30
場所:宜野湾セミナーハウス(☎898-4361)
参加費:無料(席上献金あり)
定員;60名
参加申込先:ぎのわんセミナーハウス
主催:那覇聖書研究会
協力:沖縄キリスト教センター  


Posted by 呉屋弘光 at 20:54Comments(0)お知らせ
 

2012年01月17日

新刊の打ち合わせ

宮古バプテスト教会の瑞慶山牧師より電話が入り、
東日本大震災の救援活動の帰りで、
昨日那覇に戻り宮古に帰る途中で5時まで時間があるとのことで、
急遽、泊の「とまりん」で会う事になった。

具志川バプテスト・コミユティ・チャーチのムーン理枝先生とも連絡済みで
理枝先生も同席されるとのことであった。

瑞慶山牧師と理枝先生には、去年より新刊の執筆を依頼しており
新刊の企画をお互い再確認する重要な機会となった。

2010年に与儀喜美江・小林ゆうこ共著「おきなわルーツ紀行」を発行したときは
著者と私の考えには大きな隔たりがあった。

著者の一人与儀喜美江さんは
沖縄の風習と聖書との関わりに拘りがあった。

一方、著名なルポライターでもある小林ゆうこさんは
沖縄のルーツに関心があった。

しかし、私の関心は
「ルーツ」でも「風習」でもなく
キリストの説く「救い」とは何かが
最も知りたかった内容であった。

そのことで、発行直前になって
色々とトラブルも発生した。

本のタイトルをどうするか
本の広告をどのようにするか
著者から数々の物言いがつき
最後になって、当初考えていた企画の趣旨が
ぼやけた形になって、私にとっては不満が残るものであった。

私が当初企画していたのは
キリスト教の痕跡が沖縄の風習にあるとか
あるいはユダヤ教の痕跡が沖縄の伝統行事の中にある、
と言うものではなく、

キリスト教の痕跡がユダヤ教の中にあり
またユダヤ教の痕跡がキリスト教の中にあり

もともと同じ神からでたひとつの教えである。
旧約と新約はひとつであり、ひとつの神である。

沖縄の風習には
ユダヤ教、キリスト教が本来はひとつであることを示す痕跡がある。
沖縄の伝統精神「イチリバチョデー」もそれを雄弁に物語っている。

それこそが沖縄が世界に向けて発信すべき
重要なメッセージである。

私は企画書にそうように書き、著者にはそのように提示した。

しかし、私の企画は著者に十分に伝わらず
ユダヤ教、キリスト教の認知度は日本では低いから
それは一般受けしない。

それよりもユダヤと沖縄の類似性を強調して
まずは一般読者に関心をもってもらうことから
始めようとの著者の要望に応える形に
途中で変ってしまった。

そこで、私は独自に中川健一牧師のセミナーのDVDを取り寄せ
毎朝メッセージステションのネットを見ながら
キリスト教の勉強をした。

そこで初めてキリストとは何か、十字架と新約の福音が何であり
新約の奥義が何であるか知ることなった。

11月27日に洗礼も受けて
クリスチャンとなった。
そしてキリスト教で説く「救い」が何であるか
ハッキリと自覚できるようになった。

今回進めている企画は
キリスト教の説く「救い」が何であるのか
それを明確にするものとしたいと思っている。

幸いのことに、今回の企画では
著者と私の間に意見の相違は全くない。

ムーン理枝牧師も瑞慶山牧師も
ともに祈りに導かれて
お互いの持っている賜物を
今日の話しで確認することができた。

もうすぐ細かい内容も公開できると思うが
今日の打ち合わせは
まさに神の臨在を感じさせるものであった。  


Posted by 呉屋弘光 at 22:05Comments(0)お知らせ
 

2012年01月12日

浦添市西原の大城門中より系図の申し込みがありました

HPをリニュアルして5件目の依頼です。

不思議なことに浦添市西原とその周辺に集中しています。

HPの解析をみても浦添地区からのアクセスがだいぶ増えています。

HPを見て申し込まれる人の特徴は、
歳が若いということです。

球陽出版発行の「士族門中家譜」「沖縄のサムレー」など本を見て
依頼に来られる人は、だいたい70〜80代の人達が中心です。

しかし、球陽出版のHPをみて来られる依頼人は
年齢層がとても若く20〜40代が中心です。

今日の依頼人・棚原厚さんも27歳です。
以前の依頼人に比べて非常に若いです。

私も門中に関心を持ちはじめたのも
30代後半でした。
今から30年前のことだが
門中では「若いのによく頑張る」と
長老の方から、珍しがられ誉められもしました。
当時はパソコンも普及してなく
手書きで聞取り調査で
一軒、一軒各家庭を本家の方と一緒に回り
調査しました。

1年がかりで完成したときは
門中から大変喜ばれ、
私は門中より「最功労賞」も頂きました。

あの時は本当に何もない状態から
図書館で資料集めから、手探りで始めました。

当時は、門中に士族門中と平民門中の区別があることすら
知りませんでした。

自分達の門中の系図を完成させることによって
少し自信もつきました。

そして、
他にも系図を作りたいが
方法が分からなくて中断している門中が
数多くあることも知りました。

今は非常に恵まれた時だと思います。

家譜の研究も進み、
パソコンも普及し
お互いの情報交換も
簡単にできるようになりました。

昔は門中は「火の神」を中心に
一門が結束して祭祀を執り行ってきましたが
今や、パソコンで一門が繋がっていく時代に
なったように思います。

もう既にパソコンを通して
系図の申し込みがあったのは5件目です。

これから、増々加速していくと思っています。
スタッフも増やして、需要に応えていきたい
と意気込んでいます。  


Posted by 呉屋弘光 at 17:39Comments(0)平民の系図
 

2012年01月10日

2012年度の家系調査は今日から開始

新年を迎えて、今日から調査が再開しました。
今日は首里士族の馮氏諸見里家を訪問しました。

馮氏の諸見里家は馮氏最初の分家筋にあたり
分家筋初代の安道から三代目安長から子孫が広がっています。
安長の次の代から長男腹、二男腹、三男腹、四男腹、五男腹と
沖縄全島に子孫が広がっています。

ちなみに長男腹、二男腹、三男腹が具志川に子孫が集中しており
具志川諸見里と呼ばれています.

四男腹は出家して、仏の道を歩み子孫はいません。

五男腹は北谷諸見里と呼ばれ
北谷を中心に沖縄市、北中城、西原町、那覇市、糸満、東風平と
子孫が繁栄しています。

六男腹は与那原諸見里と呼ばれ
与那原町を中心に、子孫が多くいますが
中元屋がブラジルに移民し
初代の位牌もブラジルに祀られているようです。

馮氏には神人と呼ばれる人達が何名かいて
「自分達は、池城毛氏とも関係があり、久米島の上江洲家とも
関わりがある」と言っていました。

その理由を聞くと
池城殿内の毛氏は首里士族でも由緒ある一門で
多くの三司官を排出しているが
子孫の名乗り頭は「安」を使っている。
馮氏の子孫も名乗り頭「安」である。

名乗り頭がたまたま一致しているから
何か関係があると結論づけるのは
問題があるのでは、最初問い合いませんでしたが
調査が進むにつれ
神人がいうのも一理あることに気づきました。

それは、馮氏には
自分達は大里王子の子孫であるとの
言い伝えがあり
その人が誰を指すのかハッキリしませんでした。

しかし、今回の調査で
大里王子は尚真王の二男であることが判明しました。

そう!沖縄の古琉球と呼ばれた時代
最も栄えた黄金時代を築き上げた
第二尚氏王統、第三代目国王尚真王です。

その人の子どもが大里王子です。

最初は、依頼人の安栄さんからは
自分達は尚家とも関わりがあると言われているが…。
と尋ねられても
どこでどう繋がっているか
ハッキリしませんでした。

しかし、今回の調査で
その謎が解けました。

池城殿内の毛氏は、
尚真王と今帰仁のノロとの間にできた子安基が
元祖になっています。

しかし、家譜には
安基の父母は誰か知らずと記載され
一方一門の子孫には
安基の父親は尚真王であると
ハッキリ伝えられています。

ノロが子を宿すことは
御法度でけして公にすることはできません。

そこで、その子に氏を与え
名乗り頭には「安」を与えて
無事に育つ事を願って
養育したから
王府の要職につくようになったのでないか。

それと全く同じように
今度は尚真王の子ども(二男・大里王子)が
ノロとの間に子ども出来
父親の例に習って
氏を与え、名乗り頭には「安」を与えて
その子孫の行く末を
守ったのではなかろうか。

そして、不思議なことに
馮氏諸見里家の子孫は
家譜を読むと
ほとんどの人が大美御殿に勤務している。

大美御殿は聞得大君が琉球の祭祀行事を
執り行っていた所であり
そこに務めることができるのは
その血筋の者が優先されることは言うまでもない。

家譜と照らし合わせてみると
池城殿内と馮氏が繋がりがあることが
少しづつ明確になってきた。
今月中には馮氏諸見里家の系図も完成させたいと思う。  


Posted by 呉屋弘光 at 22:05Comments(0)首里士族
 

2011年12月25日

メリーXmas、そしてハッピーハヌカ5日目

今日はクリスマスで、キリストの生誕を祝う日です。
街角でもクリスマスを祝う行事やイベントが沢山あります。

うるまバプテスト・チャーチでもクリスマスを主日礼拝後
各自1品料理を持ち寄って祝いました。

そしてディビィド牧師のメッセージは、クリスマスの意義と
ユダヤの祭りハヌカとの関わりが話されました。

クリスマスと言うと、キリストの生誕日として祝うが
生前のイエスは自分の誕生日を祝って、
弟子にも誕生日を祝うように強制したのでなく
イエスが祝ったのは、ハヌカの祭りであるとの事。

別名「宮清めの祭り」あるいは「ひかりの祭り」とも言われ
ユダヤ人は誰もが知っている祭りで、
去った21日から8日間も祝うようです。
今日の25日は、ハヌカの5日目にもあたるようで
その両方をうるまバプテスト教会では祝いました。

今の西洋キリスト教徒は、ユダヤ的行事をすべて切り捨てて
成り立っていますから、
イエスがハヌカの祭りを祝っていた事は無視されています。

紀元前200年にエルサレムの神殿は
異教徒に奪われ、一時期異教徒の神ゼウスが祀られ
供え物も豚が播捧として捧げられ
神殿が汚れていたものをマカビーの反乱で
神殿を取り戻し、
旧約聖書に書いてある供え物をするようになった
いわばユダヤ人が自分達の信仰を取り戻した記念すべき日であるようです。

私がビックリするのは
ユダヤ人達は自分の犯した罪の償いだけでなく
ユダヤ人全体のため
そしてこれは想像も及ばないことですが
全人類の罪の購いのためにも
牛、羊、山羊を何頭と数を定めて
大贖罪の日には犠牲を捧げておりました。
祭りの期間、づっとやっておりました。

考えられますか。

自分達と関係ない他所の人も分も含めて
犠牲を捧げていたという事。
祭祀国家として、ユダヤの民は神より召され
それを2000年近くも
伝統行事としてやっておりました。

私も洗礼を受けて
色々と勉強するうちに
ユダヤ人は契約の民であること
そこから全人類の救い主が生まれたのも
なるほどと納得がいきます。

ですので、今日はキリストが誕生されたという事とは別に
ユダヤ人にとって、
ユダヤの信仰を取り戻した記念すべき日でもあります。

今日のディビット牧師のメッセージも
非常に良く分かりました。

主の導きにただただ感謝です。

クリスマスの同じ時期に
ユダヤ人も自分達の信仰を取り戻した重要な日として
祝っている事を、少しでも多くの人に分かち合いたいと思います。  


Posted by 呉屋弘光 at 20:54Comments(0)ユダヤ教
 

2011年12月21日

ハヌカの祭りに参加しました

ユダヤの暦では、昨日の日没から8日間ハヌカの祭りが行われています。全世界にいる全ユダヤ人がこの祭りを祝います。
「光の祭り」とも呼ばれているハヌカは、紀元前2世紀頃、ギリシャによって汚された神殿を清めたことを記念する祭りです。
このとき、聖なる燭台用のオリーブ油1日分が、奇跡的に8日間燃え続けたことを記念し、『ハヌキヤー』という9枝の燭台に
1日1本づつ点灯し、各家庭の窓際に置かれ、祝うようです。

昨日は、那覇バプテスト教会で超教派で各教会に働きかけ
ハイ・ナイト(いのちのいのり)の一環として、
沖縄の各教会の会派が集い
ハヌカの祭りも同時に祝いました。

ユダヤの祭りに参加してつくづく思う事ですが、
この民は、神と人間との間に結ばれた絆を
いかに自分達の後孫に伝えるか
命をかけてそれを守っている民で
本当に契約の民だと痛感します。

何故、キリストがこの民から生まれて来たのか
行事を見るたびに発見します。

伝統行事は、単に飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをする時ではなく、
神と人間とに交わされた絆を確認する時であることが、
ユダヤの伝統行事に参加する度に教えられます。

ハイ・ナイト(いのちのいのり)で、ムーン理枝牧師より
ハヌカの歴史的背景のメッセージがあり、
最後に、ハヌカの時にユダヤ人が必ず食するという
ハヌカの食事を頂きました。

その後、各人の自己紹介があり
私はうるまバプテスト・コミュニテイ・チャーチから参加しており
去った11月27日に洗礼を受けたばかりであることを告げると
国吉守牧師より、「今日のハヌカの食事は
呉屋さんの新生した誕生祝いの食事である」と
言って、とても喜んで下さいました。

沖縄の初めての超教派で行われた今回のハイ・ナイト(いのちのいのり)に
招かれて、しかも国吉牧師より祝福の言葉も頂き、ただただ感謝である。

イスラエルの民族的救いなくして
イエスの再臨なし、
異邦人教会として、イスラエルの救いのために
これからも、続けてハイ・ナイト(いのちのいのり)に
参加しようと神の前に誓って、
会場を後にしました。  


Posted by 呉屋弘光 at 23:17Comments(0)ユダヤ教