うるま市与那城西原玉城門中の聞取り調査しました。
系図の依頼主は与那城辺の中村さん。定まった名乗り頭を持ってないから平民の系図のように思えるが、一門が昭和27年に作成した玉城按司系図によると、英祖王の親にあたる恵祖世主が元祖とされている。
英祖王出てくると私としては非常に困る。何故なら私が作成している沖縄の伝統系図とは、1689年に琉球王府に系図座ができた頃作成された家譜をもとに系図を作成しているからである。英祖王は1229〜1299年に活躍した人物で、系図座ができた1689年から約400年遡った人物である。実在を裏付ける文献がほとんど見当たらない。
琉球王朝ですら十代遡ってしか系図を作成してない。系図座ができたのは尚貞王21年であり、第二尚氏の11代目の国王の時である。王家でも十代しか遡ってないのに、平士族はせいぜい4〜8代ぐらいしか遡って系図を作成してない。具体的な年代でいうと1500年代から始まるのか、普通一般的な系図である。だから私の作成している系図は約500年の歴史しかない。
もし英祖王から始まると、さらに200年遡ることとなり、700年の調査となる。今のところ私の調査では無理だ。だいたい英祖王を持ち出すのはユタの方々がほとんどである。彼らは、直接その霊を見て声を聞くことができるから、彼らにとっては問題はないが、霊感のない私にとっては、検証のしようのないもので、非常にややこしい。
以前に2回ほど名前の分からない先祖を、宜野湾の玉那覇有安ユタに来てもらい、火の神の前で判事を出してもらい言い当てたもらったことがある。しかし。たとえユタの側に立ち会っても、こちら側からするとユタの一人芝居を見ているようで、「はい、何代の前の先祖の名前が判明した」とメモを渡されても、それがあっているかどうかの判断ができず困った。相手は自信たっぷりに話すから、こちらも「ああ、そうですか」とそのメモを受け取ることしかできない。私の作っている伝統系図に記入する時も、「玉那覇有安ユタに判事してもらったら、こういう結果が出ていました」とただし書きを入れて紹介した。
英祖王まで結びつけられている系図を、どのように検証すればよいか模索中ではあるが、与那城西原玉城門中は明治に入る直前に、具志川豊原の与儀屋(ユージヤ)からの分かれだということを聞いていたので、今日はユージヤーの元祖を預かる与儀良光さんを訪ね、ユージヤーの元祖のことについて貴重な話を伺うことができた。
明治前後の門中の動き、系図座が出来た頃の門中の歩み、さらにそれから400年遡って元祖英祖王との繋がり、確認すべき内容がまたまだいっぱいある。
ただ今日、良光さんにお会して、やっぱり門中の中には、門中の記録を大切に保管して持っている人がいることが確認でき、意欲がますます深まって来た。
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