与儀功さんの遺言

呉屋弘光

2012年04月16日 20:45

昨日の功さんの召天式には、400名以上の方々が参列された。また納骨の儀にも、地元具志頭のお墓の前に100人以上の方々が、故人との別れを惜しんだようだ。これだけ多くの方々が参列されるのは、功さんの人徳によるものだと思うが、ずっと昔、教会に一緒に苦楽を共にした兄弟姉妹もだいぶ見えられていたようで、これだけの人達に慕われていたんだ、ただただ感謝の念で涙が留めもなく流れたと喜美江さんは、話しておられた。

召天式の最後に、親族を代表して喪主の喜美江さんから、興味深い功さんとの体験談が話された。功さんは一ヶ月近く意識不明の昏睡状態であったが、去年の暮れまでは元気であった。元気な頃、功さんは喜美江さんの顔をマッサージしてくれた事があったようだ。ウトウトするうちに、目が覚めたら1時間近く経っており、その間一生懸命顔のマッサージを続けていたようである。箸を掴むことさえままならない病弱な体力であったが、ただひたすらマッサージをしてくれた。

そして、功さん曰く

「自分はここにきて、人間に一番必要なものは愛だということが良く分かった。お前は顔の筋肉が固いから、何時もしかめ面に映る。だから人から愛されるように努めない。そのためにも、けして笑顔を絶えしてはいけない。人に接するときは笑顔で接しなさい」と。

おそらく、病状が日に日に悪化の一途を辿り、どうしてこうなるのか、不幸を全部自分一人で背負っているかの如く顔色も曇っていたかも知れない。その緊張を少しでもほごそうと、必死の思いで、マッサージを続けていたのだろう。

私は、彼女のその体験談を聞きながら、かつてイエス・キリストが十字架に架かるその前の日、12名の弟子を集めて、最後の晩餐の時に、弟子の一人一人の足をご自分の手で洗いながら、お互いが愛し合いなさいと戒められた状況と重なってきた。

人は自分自身に固執すると、周囲が見えなくなり、世の中の不幸を自分一人で背負っているように錯覚する。「なんで、私だけが」と考え、他と比較し始め、不平不満を口にする。やたら正義を連発するようになり、「自分は正しい、間違っているのは彼らだ」と責任を転嫁する。そのような自分に誇りが持てなくなり、自己嫌悪に陥る。自己嫌悪に陥ったら、顔もこわばり、きつい顔になり周囲を増々寄せ付けない。

かつてのイエスの弟子もそうであった。自分が偉い、自分は特別なんだ、と自我意識が強く、お互いがお互いを見くびっていた。私の方が絶対にこの人よりは偉いんだ、自我意識の固まりだった。だから互いが助け合う、支え合うことはなかった。そこでイエスは言われた。「私は仕えるためにきたのであって、仕えられる為にきたのでない。先生である私がそのようにやったのだから、あなた方も、そのようにしなさい。」と。そして、一人一人の足を洗われた。これは個人のプライドがあるとなかなかできない。プライドが完全に無くなった時にできる。自分は神の子だとのプライドがあると、なかなか弟子ひとりひとりの足は洗えない。

だから、個人のプライドを捨てて、お互いお互いに尽くし合うことの大切さを、身を以て示された。

功さんも男だ。私も同じ男として功さんの気持ちは良く分かる。男としてのプライドがある。なんでわざわざ自分の妻のために、病弱な体を鞭打って、1時間近くも、妻の顔のマッサージをしなければならないんだ。そんなことをすると自分が惨めではないか。自分が哀れに見えるのではないか。色々な思いが錯綜する。

個人のそのようなプライドがすべてふっきれたときに行動に出れたのではないだろうか。

それは少しでも顔の表情を和らげて、皆から慕われるように振る舞ってほしい、との思いではなかったのだろうか。

私はふと思った。

まさに2000年前にイエスのとった行動そのものではないか。

顔と足の違いはあるが、自分のプライドに囚われていると自分が身動きが取れなくなる。そこに行動が伴わないと、愛が冷え、冷めきった人間関係になってしまう。何の希望も情熱もない社会になってしまう。

功さんが、「ここにきて分かったことは愛が一番大切だという事」と繰り返し、喜美江さんに語ったということは、キリストの真理を悟った言葉ではなかっただろうか。

少なくとも私は昨日の喜美江さんの話しを聞きながら、強く神の愛の尊さをしみじみ感じた。
またしても大きな学びができた。

功さんありがとう。

貴重なメッセージ、良く分かりました。

私も実践の中から、それを確認していきたいです。

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