馮氏諸見里家に系図の調査結果を報告しました

呉屋弘光

2012年04月07日 19:31

昨日は馮氏諸見里家の代表の方々を、糸満武富に集まって頂き、今まで調査してきた諸見里家の系図調査の報告をしました。馮氏は首里士族と、那覇士族がありますが、今調査しているのは首里士族の諸見里家です。ちなみに首里士族系統の馮氏は、名前の最初に「安」の一字が使われております。一方、那覇士族の馮氏は、名乗り頭は「清」です。ですから区別はすぐにつきます。

集合して頂いたのは糸満武富の安次さん宅です。安次さんは、野村流古典音楽協会の副会長の要職も務められ、三味線教室も開いておられますので、教室の中で報告会が行われました。




糸満市武富は明治になって士族の方々が住みついてできた集落で、一般にヤードイ(屋取り)部落と呼ばれています。地番は糸満ですが、東風平と豊見城と両方に股がって境界線が隣接しています。これは安次さん宅から見た風景で、遠くに見えるのは豊見城市です。





当日は安栄さんより、今までの調査経過が報告されました。安栄さんは諸見里家の実力者で、現在の諸見里ポートリー創業者です。沖縄を代表する養鶏業の要職も数々担ってこられました。1年間、私と一緒に役所、そして分家筋を一軒一軒訪ね歩き、馮氏の全体像をまとめて下さいました。馮氏一門は沖縄全県的な子孫の広がりを見せており、具志川、久米島、沖縄市、北谷町、宜野座村、那覇市、糸満市、与那原町と多くの地域にまたがっております。

子孫が全県的にまたがっている為に、元祖諸見里安春からどのように末広がっていったのか、宗家ですらハッキリつかんでおりませんでした。そこで諸見里家の家譜を、大学教授に一字一句現代文に訳してもらいました。今では元祖から始まって、子孫がどのように末広がって行ったのか、ハッキリ分かります。糸満に島尻諸見里として、どのように辿ってきたのか、糸満に移ってからの生活がいかほど苦労してきたものか、切々と語られました。そして、自分は子孫の歩みを皆さんに正しく理解して貰いたいとの思いで、必死に調べてきた。祖父、曽祖父がいかに苦労して、ここまで我々を守ってきてくれたか、少しでも感じてもらいたいと話されました。





最後に、球陽出版の家系調査員知名直子さんより、武富集落のヤードィと島尻諸見里との関係を、糸満市史と字史から調べた内容が報告された。東京生まれ、東京育ちの彼女ですが、集まった人達より、ヤマトゥで言葉の壁もあるのに、よく調べてくれたと皆さん感心しておりました。

本当にそうです。

球陽出版の家系調査も彼女が来てから、だいぶ変りました。以前の系図調査はほとんどが士族中心で、まず氏(うじ)を調べ、家譜が現存するかどうかを、那覇市歴史博物で調べました。そして、その士族と関係ありそうな名前を電話帳で一軒一軒調べ、聞取り調査で作業を進めました。正直な話、平民の場合、どこからどういう具合で調査すれはいいのか、不安な部分がありました。

しかし、直子さんは沖縄市の嘱託職員として、地域史を担当した経験があり、色々な方からの聞取り調査をやっておりました。そのため平民の資料も、各市町村史あるいは字誌に細かくまとめられており、平民の調査も字誌を活用すれば充実した調査が可能であることを教えてくれました。お陰で球陽出版の系図調査も幅が広がりました。

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