系図のナカジリの扱い

呉屋弘光

2012年03月03日 21:50

今日は、首里士族の湛氏・名嘉真家を訪問した。湛氏は初代がおもろ奏者として知られ、数々のエピソードも残されている。

湛氏の元祖恩納親雲上宣存の祖父は数明親雲上といい、伊波村で生まれ、幼少の頃からおもろ(古謡)をたしなみ、その謡いは妙をえていた。ついに王府の目に止り、神酒司(みきつかさ)となり、首里に住むようになった。尚清王が久高島参詣のおり、神酒を持ってお供をした。帰航のとき暴風雨になったが、数明親雲上が船首に立っておもろを謡うと風波が鎮まり、船は無事与那原浜についた。そこで数明は神歌頭に任じられ、大島数明(住用)の地頭職を賜った。

まるで聖書に出て来るガリラヤ湖畔でイエスの乗った船が嵐にあったとき、イエスが風を叱りつけると嵐も治まったとの記録を彷彿とさせるような出来事である。湛氏の系統は、沖縄の拝みにも深く関わっているように思えてならない。

一世の恩納親雲上宣存は、尚寧王が薩摩に連行されたとき、おもろ役としてお供した。帰国して美里間切恩納地頭職に任じられ、真和丘の御拝領墓をもらっている。墓は今次大戦で破壊され、遺骨が確認できない状態にあるようだ。

本家が岳原家で、名嘉真家は二世宣安の四男が創家した家柄である。家譜は全部で9冊あるが、現存が確認されているのは本家岳原家と分家屋良家の2冊のみである。肝心の依頼のある名嘉真家の家譜が見当たらない。

だから立ち口(分家筋の初代)は分かるが、その分家筋の初代から明治の初め頃まで途中の歴代の人達が分からない。上も分かる、下も分かる、ただその中間のそれを繋げる歴代の人達が分からないことを、沖縄では「ナカジリ」と言っている。名嘉真家は初代五世と明治ちょっと前の十世までの途中の歴代の人達が名前が分からない。

そこで、その部分をどのように記載するかを依頼主と話した。いわばナカジリの問題をどうするかである。

やり方は二つある。

ひとつは、分からない所は「調査したが判明しなかった」とそのまま記載する方法である。これは裏付ける史料がなければ当然のことだろう。しかし、沖縄の場合、特に平民の系図に顕著あるケースだが、ユタを連れてきて、ユタに判事を出してもらい、そのユタの言った通りに系図を作成してほしいとの要望である。私も3回ほど、現場に立ち合ったことがあるが、霊感のない者には何か一人芝居をみているようであり、「ハイ!、これがあなた達の先祖の名前だ」と差し出されても、こちらはどう判断したらよいか迷ってしまう。自分が見えない、聞こえないから「あなたのは信じられない」と否定できないし、逆に肯定もできない。

私は、依頼人に分からない五代分を、分からないとそのまま記載するか、それともユタを連れてきて、判事を出してもらいユタの判事ではこのように出たと記載するのか、意見を伺った。こちらは既に両方のやり方で、系図を作成しているので、どちらでも対応は可能である。選択権は依頼人にある。ただユタの助けを借りる時は、出張料が1回3万5千円拝み代として出る事を告げた。

依頼人は、自分達のできることは時代考証の含めてしっかりとやり、分からない所はこれからの子ども達への宿題として与えたいと申し出た。こちらも出来る所と出来ない所を明確にして、お客にハッキリと伝える重要性を再確認した思いがする。安易にユタに依頼するのも後に人達に混乱を与えるのでは、と思う。

今、記事を書きながら思い出したが、又吉イエスも湛氏の首里士族ではなかろうか。突拍子もない発言で物議を醸し出している又吉イエスだが、私が那覇出版に勤務していたときに、彼の本を私で編集して出版した。やっぱり沖縄の拝みと深く関わっているような印象をあの当時も受けた。

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