今日、ぎのわんセミナーハウスで、那覇聖書研究会主催の祖先崇拝・ユタ問題公開講演会があり参加しました。定員に達し次第申し込みを閉め切るとの案内でしたので、私は案内頂いて直に申し込みしましたが、定員を大幅に越える参加者があったのか、予定の席以外にも椅子がずいぶん持ち込まれ、祖先崇拝・ユタ問題に対する関心の高さが良く分かりました。
講演は二部に分かれ、講演1が友寄隆静氏の「なぜユタを信じるか」その後出版30年後の所感として、メッセージが語られました。「なぜユタを信じるか」は1981年に出版された本で、当時一ヶ月で1万部を売り上げ大ベストセラーになり、沖縄中でユタ問題が大きく取り上げられた。それからトートーメ問題にまで発展し、沖縄県内で賛否両論が巻き起こったキッカケを与えた本です。当時は本当に衝撃的でした。30年経ってなお県民の関心が高いことは定員を大幅に上回る参加者をみれば分かります。沖縄の祖先崇拝の基本構造は、位牌、焼香、主婦で構成されており、その三つが重なった所でユタが関わっている。30年経ても基本的には変らない。問題を解決するには沖縄の男性陣が、もっと真剣に位牌、焼香問題に関心を持ち、しっかりした哲学なり神学をもつ必要がある。どうも女性に任せきりにする所にも問題があるのではとの指摘もありました。
そして、講演2部ではユタからキリスト教に改心した金城米子さんの「闇から光へ」と題し、なぜ私はユタをやめてクリスチャンになったのか講演がありました。ブログでは代々ユタの実家に生まれ育ち、ユタの表の顔と裏の顔も赤裸に綴られています。それで米子さんのことはある程度知っているつもりでしたが、今日の話はすべて初めて聞く内容でした。特に末っ子に障害を持った子どもが生まれ、経済的にも精神的にも追いつめられ、一度母子心中で入水自殺を計ったことがある。それまではユタで生計をたて、判事を出し、拝みも依頼があれば沖縄中を廻って、拝んできて、ほとんどの拝所を廻り尽くした。色々な拝みをしながら、自分が拝している神は本当の神ではない、この天地を創造した本当の神が必ずいるはずだと、心の底ではいつも思っていたので、入水自殺を計ったとき、もし本当の神がいるなら、自分は死んだら地獄におちてもいいが、この子は地獄には落とさないでくれと、天地創造の神に直談判し、海に飛び込んだ。すると海に沈む事無くすぐに浜辺に打ち上げられた。
目が覚めると、暗闇の中から十字架の光が見え、「貴方は本当に私にお願いしたいのか」との声ならぬ声が聞こえた。そこで米子さんは恐る恐る「貴方は誰ですか」と尋ねた。すると「私は、ありて有るものである。」との言葉が返ってきた。
私はその話を聞くと身震いがした。
「私は、ありて有るものである。」とは聖書に出て来る天地創造の神です。ユダヤ人がエジプトで奴隷生活をしていたとき、彼らの解放者モーセをシナイ山に呼び出した天地創造の神で、モーセも燃え盛る柴の炎の中から呼びかける声を聞き、「あなたは誰ですか」と尋ねた。そのときに返って来た神の言葉が「私は、ありて有る」ものである。
考えられますか。3600年前にユダヤ人の前に現れた神が、9000kmも離れたこの小さな沖縄のユタに声をかけたということを。そのユダヤ人の前に現れた神と、2000年前にイエスの前に現れた神も同じ神で、生きて働く神である。私は米子さんほど追いつめられた体験はないが、「おきなわルーツ紀行」の本を発行したとき似たような体験をした。
神は死んだ神ではなく、私の話しを聞き、そして問題の解決策もすべて持っておられるという体験をした。その時、その神とは、聖書で書かれているユダヤ人とイエスの前に現れた神とは、同一の神だと私もその声なき声をハッキリと聞いた。だから米子さんが「ありて有るもの」との言葉には正直ビックリした。
私だけではないんだ。ここにも私と同じ体験を持つものがいる。非常に嬉しくなった。そして米子さんの話を聞きながら、ユダヤ(イスラエル)と沖縄の動きが連動しているように思えてきた。
今、イスラエルで新たな動きがある。メシヤニックジューの人達の台頭である。メシヤニックジューとは、ユダヤ人でありながらキリストを受け入れる人達である。今までユダヤ人達は「キリスト殺し」を汚名を着せられ、多くの迫害を受けて来た。ホロコーストがその最たるものである。だからユダヤ人達は、キリスト教徒になるにはユダヤ教を破棄することを求められた。そしてユダヤ人達はユダヤ教を捨ててキリスト教徒になった。
しかし、ここにきてユダヤ人がユダヤ教を信じたままキリストを受け入れる人達が出て来ている。聖書は旧約と新約から成り、旧約はユダヤ人の歴史書で、新約はイエスの歩まれた歴史が綴られている。本来はひとつであるべきものが、旧約も新約もそれぞれ2つに分かれている。即ち旧約のイスラエル王国はソロモン王朝以後南北に分かれた。そして新約のキリスト教も東西に分裂した。言うならば聖書は旧約新約を通して東西南北に分かれている。
東西南北に分かれた神の歴史が、今再び神によって一つに結び付けられようとしている。
イスラエルと沖縄、何の関係もないように見えるが、イスラエルに顔を現した神が、この沖縄に声をかけている。そして沖縄のユタに現れて、「私はありて有るもの」と神ご自身が何者かを明確にしている。ここに何も無いというのがおかしいのではないだろうか。少なくとも私も米子さんと同じ声を聞いてた。おそらくこれから続々と沖縄の神人、ユタ、ノロにも神の声がかかるのではないだろうか。
そして、メシヤニックジューのように、沖縄にもユタニックジューがこれから台頭してくるのではないだろうか。ユタでありながら、キリストを証する人達がどんどん出て来るだろう。
これは東西南北に分かれた神の御体をひとつにする運動が着々と進んでいるように思えてならない。
米子さんはイスラエルの神、天地創造の神に出会った喜びを上い口説に合わせて、踊りも披露された。