家系調査のため久高島に行ってきました
系図の依頼主は糸数家。久高島に住んでいる訳ではなく、本人達の実家は与那国にあります。祖父母の時代に久高島から与那国に移住しています。その一つ前の曾祖父母の代に、那覇士族魚氏の宮城家の三男普松が掟として、那覇から久高島に移住しました。どのような事情で久高に移住したかはこれからの調査になりますが、那覇士族魚氏宮城家の十世普松が分家して創家したのが糸数家で、那覇から久高に移住した屋敷跡も確認しました。
この方が、依頼主の入松川恵子(旧姓糸数さん)さん。依頼を受けたのは三年前に遡りますが、当時は自分達の親戚全員名前の最初の一字に「普」が使われているのに、それが何を意味するのか、何も理解していませんでした。私の方から「普」の名乗り頭を使っている士族は、那覇士族で「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷を輩出した門中であることを伝えました。
それから沖縄の門中制度に関心を持つようになりましたが、私には不思議でなりませんでした。どうして、沖縄では名の知れた一門でありながら、末端にくると名乗り頭はおろか、自分達の氏名(うじめい)さえ知らない人達が出てくるのだろう。士族であれば、自分達の氏名、名乗り頭を知っているのは当たり前の事であって、一門ではしっかりと伝えられていないのだろうか。しかし、たとえ伝えられなくても、子どもたちが名前をつける時、何故自分達は「普」の一字が皆が使用しているのか、疑問に思い、親に尋ねることはしないのだろうか。
調査が進むにつれて、氏集には那覇士族魚氏に糸数家がないことが分かりました。氏集は士族の住民基本台帳のようなもので、約680系統の首里士族、那覇士族、泊士族、久米士族全ての記録が記載されています。明治34年までの記録ですので、その記録にないという事は、明治34年以降に、糸数家は新しく分家した一門であることが分かります。
明治34年以降に創家した分家筋であることは分かっても、どこから分家したのか、今ひとつハッキリしません。魚氏といっても家譜が五つもあり、本家多賀良家からか、分家筋の宮城家か、あるいは許田家かよく分かりませんでした。
ラジオ番組で情報提供を呼びかけると、宮城家の方との連絡が取れ、宮城家の十世三男が久高島に分家した記録があることがわかりました。時代考察をしても、伊波普猷と同年代ぐらいで今生存している人達の証言を聞いても、全てが一致します。伊波普猷は明治9年生まれであることはハッキリしていますので、同世代の宮城家三男が久高に移住していることが確認できました。
ここにきて、那覇士族魚氏の糸数家はそのルーツが明白になってきました。
調査を開始してから3年近くもかかっております。しかし、忍耐して希望を持ち続けておれば、道は必ず開けることを今日、久高を訪問して、つくづく感じました。焦る気持ちはあっても、忍耐強く待つのも、大切である事を学びました。
昨日の宮城家の清明祭参加、今日の久高島訪問と、確実に道が一歩づつ開けてきています。
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