2012年05月19日
行ってきました細川ガラシャのミュージカル公演

今日、細川ガラシャ〜命、輝いて〜のミュージカルに行ってきました。全席自由席の昼の部と夜の部の2回公演でしたが、夜の部に行きました。会場は浦添市てだこ大ホールで、席はほぼ満席でしたので1,000名ぐらいのお客さんが見たと思います。昼の部も会場に入れないぐらいの反響だったと聞いていますので2,000名の観客動員があったと思います。
私は何故か野津唯市さんの画集を発行してから、「命」の輝きについて意識が集中するようになりました。野津さん作品で発見したのは、「命」の輝きは「絆」であることの気づきです。野津さんの作品に描かれている人は、すべてが生き生きとしています。躍動感があります。本当にひとりひとりが輝いています。
その輝きがどこからくるのか、いつも考えるようになっていました。野津さん描いている作品には一人一人のストーリがあります。この人はこういう人、そしてこの人とこの人はこういう関係であると、人物の背後に物語があり、それが完全にひとつになっています。そこに安らぎと平安があります。その中に躍動感があります。それは戦前の沖縄がそうであったということではなく、お互いの絆が深ければ深いほど、人は生き生きとしてきます。野津さんの作品を見ればそれがよく分かります。
しかし、今日のミュージカルはそれとは全く別の角度から、人間の「命」が輝くのは神と繋がった時だと理解しました。神と人間との「絆」が深ければ深いほどその人の「命」が輝くものであるという事を、細川ガルシャの生き方を通して教えられました。何故十字架に架けられたイエスが、信徒の希望の光となり、勇気を与えているのか、それは神とイエスとの「絆」があったからだと思いました。神との絆を見出した時、いかなる困難があってもそれを乗り越える力になるということを、今日の公演を通して感じました。
素晴らしいミュージカルを企画して頂きました関係者の皆さん、本当に有難うございました。このような企画が沖縄で公演されるとは、本当に沖縄は幸せ者です。神の導きに感謝です。
2012年05月17日
てぃーだブログで野津唯市さんの特集が始まりました

今日から野津唯市さん画集の特集が組まれております。野津さんは知る人ぞ知る沖縄の画家では最も著名な方です。野津さんが出展している展示会では、多くの人集りができることでも知られています。それも年輩の方だけではなく、若い人の行列もできます。
人はこの作品のどこに惹き付けられるのでしょう。
野津さんの常設ギャラリーのオーナである稲福米子さんから、次のような話しを伺いました。イギリスに留学している若い女性が一時沖縄に里帰りで、ギャラリーを訪れ、野津さんの作品を見て「鳥肌が立つほど感激した」との話されたとの事。私はこの話しを聞き、何が人にこれほどの感動を与えるのか真剣に考えてみました。
沖縄をいったん出て、又沖縄に帰ってきたから、外から沖縄を見つめると感動するのかと単純に考えておりました。しかし、それだけでは説明がつきません。確かに二科展をはじめとする多くの会場では、年齢に関係なく、色々と作品について説明を求められるようです。
私も本を発行してみて、ようやく作品のもつ魅力が分かってきました。
描かれているのは戦前の与那原を中心とした庶民の生活ですが、単なる風景画ではありません。描かれている自然、人、牛、馬がすべて生き生きとしています。私は野津さんの作品を通して「命」には輝いている命とそうでない「命」があることを知らされました。
そして「命」を輝かせているのは「絆」であることも知りました。人は「絆」が強ければ強いほど「命」は輝きます。弱ければ光を放つを止めます。「絆」はお互いがお互いを必要としていることをハッキリと自覚し、互いがひとつになっている状態だと思います。
私は戦後生まれですが、しかし記憶の奥底に、皆が心はひとつで繋がっていたような思い出があります。貧富の区別なく、年齢に関係なくお互いの存在を認め合っていたからこそ、「命」が輝き、誰もが生きているという実感を持っていたのではないでしょうか。
それは物が豊かだったか貧しかったには関係ないように思います。物が貧しかろうが豊であろうが、「絆」が強く結ばれておれば、「命」は輝きます。自分は生きているという実感が湧くのではないでしょうか。
野津さんの作品は、「絆」「和合」の大切さを描かれた一人一人の表情から教えられる画風になっています。
是非、野津さんのインタビューをお聞き下さい。
2012年05月17日
沖縄タイムスより野津唯市画集の取材申込がありました

琉球新報4月29日文化面
野津唯市さんの画集「懐かしい未来 沖縄」を書評で取り上げてもらうよう編集局学芸部に依頼しておりましたが、芸術作品集は書評で扱う事ができないから、文化面で記事として紹介することになった。前回は琉球新報4月29日の文化面で取り上げてもらったが、書店から追加注文も問い合わせがありました。南風原、那覇、名護の書店からの問い合わせで、すぐに補充しました。
新城喜一さんも新星出版から画集をだしておられますが、何故書評で取り上げないのだろうと不思議に思っておりましたが、芸術作品と文学作品では取り扱いが違うということを、今回の件でよく分かりました。
できれば出版という大きな観点から、出版が社会に与えるインパクトとして取り扱って頂けないかと切に願っております。実際問題、発行者の立場からすると、自分の思いを文字で表現するか、画で表現するか、表現する手段は違っても、本という同じ媒体ですので、同じような評価で取り扱えると思います。
何はともあれ、5月23日の取材申込がありましたので、一人でも多くの方に野津さんの作品に触れて頂きたいと願っております。二科会の西村先生によると、今アジアからも注目を集めているようです。
2012年05月11日
野津唯市出版祝賀会

本日山の茶屋に常設されているギラリーで画集の出版祝賀会がありました。野津さんの作品は戦前の沖縄を知っている年輩の方々だけでなく、若い世代にも非常に人気があります。二科会の会員の方も多くいらしっやいました。年齢層は幅広いものがあり、性別も関係なく多くの人に指示されているように思いました。
祝賀会には、政治の世界で著名な仲本安一もいらして下さいました。二科会の展示会で野津さんの作品に触れ衝撃を受けたとの事で、先日の新聞広告に出ているのを見て、山の茶屋に連絡を取り、画集も買い求められたとの事でした。私は仲下さんの話しを伺いながら、沖縄人は根底において皆繋がっている、沖縄はひとつなんだと実感しました。実は仲本さんは以前に私の会社に一度電話されたことがあり、出版のことで色々とお話したことがあります。本人に話すとよく覚えておられました。そして私が西原町の我謝出身だと知ると、元知事の平良幸市の葬儀の時は、自分が実行委員長を務めたと話して下さいました。何を隠そう、私の実母と平良幸市さんとの又従兄弟の関係に非常に近い親戚です。当時は私は新婚旅行から帰ったばかり良く知りませんでしたが、その節は大変お世話になったことをお礼を申し上げました。懐かしい大学生の頃、比嘉朝進さんとも親友とのことで、祝賀会で会うのも奇遇だとしきりに話しておられました。
来賓の挨拶に、西村貞雄さんが二科会支部長として、野津さんの作品の特徴を話してくれました。二科展でも非常に話題を集めており、やはり展示会では野津さん作品の前には人集りができ、作品ひとつひとつを真剣に見入っているのが、印象的だと話して下さいました。物腰がやまらかく、二科展の皆さんに紹介してくださいました。芸術の作品には疎い私ですが、今回は芸術の持つ力をまさまざとみせつけられました。
編集を手伝った小林ゆうこさんも出席予定でしたが、転倒して大怪我をして来れないとのことで、米子さんの息子が東京から祝電を披露しました。すかさず、野津さんのほうから「感謝しているよ、この気持ちを小林さんに伝えてくれ」と申し入れがありました。本当に家庭的な雰囲気で会が進み、和やかな感じでした。そして、驚いた事に私のブログのファンだという大橋さんから「ブログで系図のことを勉強している。今日の祝賀会には球陽出版の代表も参加されると思い、是非お話したいと思って参加した」と声をかけて頂き、非常に嬉しくなりました。
ブログで繋がっていることを思うと非常にうれしくなります。言いたい事はそのつど記事でアップしているので、何でもツーカーで繋がっているように感じました。
祝賀会に参加して頂いた皆さん、本当に有難うございました。
ただただ感謝です。
沖縄は本当にひとつです。
神の強い導きに感謝です。
2012年04月23日
家系調査のため久高島に行ってきました
系図の依頼主は糸数家。久高島に住んでいる訳ではなく、本人達の実家は与那国にあります。祖父母の時代に久高島から与那国に移住しています。その一つ前の曾祖父母の代に、那覇士族魚氏の宮城家の三男普松が掟として、那覇から久高島に移住しました。どのような事情で久高に移住したかはこれからの調査になりますが、那覇士族魚氏宮城家の十世普松が分家して創家したのが糸数家で、那覇から久高に移住した屋敷跡も確認しました。
この方が、依頼主の入松川恵子(旧姓糸数さん)さん。依頼を受けたのは三年前に遡りますが、当時は自分達の親戚全員名前の最初の一字に「普」が使われているのに、それが何を意味するのか、何も理解していませんでした。私の方から「普」の名乗り頭を使っている士族は、那覇士族で「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷を輩出した門中であることを伝えました。
それから沖縄の門中制度に関心を持つようになりましたが、私には不思議でなりませんでした。どうして、沖縄では名の知れた一門でありながら、末端にくると名乗り頭はおろか、自分達の氏名(うじめい)さえ知らない人達が出てくるのだろう。士族であれば、自分達の氏名、名乗り頭を知っているのは当たり前の事であって、一門ではしっかりと伝えられていないのだろうか。しかし、たとえ伝えられなくても、子どもたちが名前をつける時、何故自分達は「普」の一字が皆が使用しているのか、疑問に思い、親に尋ねることはしないのだろうか。
調査が進むにつれて、氏集には那覇士族魚氏に糸数家がないことが分かりました。氏集は士族の住民基本台帳のようなもので、約680系統の首里士族、那覇士族、泊士族、久米士族全ての記録が記載されています。明治34年までの記録ですので、その記録にないという事は、明治34年以降に、糸数家は新しく分家した一門であることが分かります。
明治34年以降に創家した分家筋であることは分かっても、どこから分家したのか、今ひとつハッキリしません。魚氏といっても家譜が五つもあり、本家多賀良家からか、分家筋の宮城家か、あるいは許田家かよく分かりませんでした。
ラジオ番組で情報提供を呼びかけると、宮城家の方との連絡が取れ、宮城家の十世三男が久高島に分家した記録があることがわかりました。時代考察をしても、伊波普猷と同年代ぐらいで今生存している人達の証言を聞いても、全てが一致します。伊波普猷は明治9年生まれであることはハッキリしていますので、同世代の宮城家三男が久高に移住していることが確認できました。
ここにきて、那覇士族魚氏の糸数家はそのルーツが明白になってきました。
調査を開始してから3年近くもかかっております。しかし、忍耐して希望を持ち続けておれば、道は必ず開けることを今日、久高を訪問して、つくづく感じました。焦る気持ちはあっても、忍耐強く待つのも、大切である事を学びました。
昨日の宮城家の清明祭参加、今日の久高島訪問と、確実に道が一歩づつ開けてきています。
この方が、依頼主の入松川恵子(旧姓糸数さん)さん。依頼を受けたのは三年前に遡りますが、当時は自分達の親戚全員名前の最初の一字に「普」が使われているのに、それが何を意味するのか、何も理解していませんでした。私の方から「普」の名乗り頭を使っている士族は、那覇士族で「沖縄学の父」と呼ばれた伊波普猷を輩出した門中であることを伝えました。それから沖縄の門中制度に関心を持つようになりましたが、私には不思議でなりませんでした。どうして、沖縄では名の知れた一門でありながら、末端にくると名乗り頭はおろか、自分達の氏名(うじめい)さえ知らない人達が出てくるのだろう。士族であれば、自分達の氏名、名乗り頭を知っているのは当たり前の事であって、一門ではしっかりと伝えられていないのだろうか。しかし、たとえ伝えられなくても、子どもたちが名前をつける時、何故自分達は「普」の一字が皆が使用しているのか、疑問に思い、親に尋ねることはしないのだろうか。
調査が進むにつれて、氏集には那覇士族魚氏に糸数家がないことが分かりました。氏集は士族の住民基本台帳のようなもので、約680系統の首里士族、那覇士族、泊士族、久米士族全ての記録が記載されています。明治34年までの記録ですので、その記録にないという事は、明治34年以降に、糸数家は新しく分家した一門であることが分かります。
明治34年以降に創家した分家筋であることは分かっても、どこから分家したのか、今ひとつハッキリしません。魚氏といっても家譜が五つもあり、本家多賀良家からか、分家筋の宮城家か、あるいは許田家かよく分かりませんでした。
ラジオ番組で情報提供を呼びかけると、宮城家の方との連絡が取れ、宮城家の十世三男が久高島に分家した記録があることがわかりました。時代考察をしても、伊波普猷と同年代ぐらいで今生存している人達の証言を聞いても、全てが一致します。伊波普猷は明治9年生まれであることはハッキリしていますので、同世代の宮城家三男が久高に移住していることが確認できました。
ここにきて、那覇士族魚氏の糸数家はそのルーツが明白になってきました。
調査を開始してから3年近くもかかっております。しかし、忍耐して希望を持ち続けておれば、道は必ず開けることを今日、久高を訪問して、つくづく感じました。焦る気持ちはあっても、忍耐強く待つのも、大切である事を学びました。
昨日の宮城家の清明祭参加、今日の久高島訪問と、確実に道が一歩づつ開けてきています。
2012年04月22日
魚氏宮城家の清明祭に参加しました
沖縄では四月は清明の時期に入っています。清明の節(4/4)に入って、最初の日曜日から、おそらく地域によってまちまちですが約1ヶ月ぐらい続きます。しかし、基本的にはどの門中も一緒で、まず最初に執り行うのが、門中の元祖を参拝する門中清明祭をやり、その次の日曜日から、分家した家族ごとに分家の立ち口を参拝します。今日参拝したのは魚氏の宮城家の歴代の先祖を祀っているお墓です。糸満市まえさとにあります。魚氏の総本家のお墓は、識名霊園の中にあり、清明の節入後最初の日曜日に一門全体で参拝されたと思います。今日はその二代目の分家筋にあたる宮城家の歴代の先祖を祀っているお墓を参拝しました。
今日参拝したのは、許田家の初代の兄弟にあたる宮城家のお墓です。良く兄弟は顔形は似るといいますが、兄弟門中を比較すると非常に良く似ているように感じます。それは顔形というより、その人達の生き方が非常によく似ています。何故伊波普猷が49歳で、沖縄県図書館長という役職も投げ捨てて、東京に上京したのか、よく分かります。個人情報に関わるのでこれ以上のことは書けませんが、似たようなことが、分家筋の至る所で見受けられるます。しかし、沖縄を代表する偉人を輩出した一門なので、表の顔だけでなく、身内として顔も、系図を作成していると教えられます。色々と勉強になります。系図作成の依頼は、宮城家のさらに分家筋にあたる糸数家です。その糸数家は宮城家から分家して、現在与那国に住んでおられます。そこの実家は以前にテレビドラマで有名になったDr.コトー診療所の撮影現場としても使われた家でもあります。そして、与那国に移住した二代目の繁さんは「海と老人」の映画の主人公としても映画放映されました。先祖の歩んだ道を、これからの子孫にどう伝えるか糸数家の系図作成を通して現在奮闘中です。
2012年04月16日
与儀功さんの遺言
昨日の功さんの召天式には、400名以上の方々が参列された。また納骨の儀にも、地元具志頭のお墓の前に100人以上の方々が、故人との別れを惜しんだようだ。これだけ多くの方々が参列されるのは、功さんの人徳によるものだと思うが、ずっと昔、教会に一緒に苦楽を共にした兄弟姉妹もだいぶ見えられていたようで、これだけの人達に慕われていたんだ、ただただ感謝の念で涙が留めもなく流れたと喜美江さんは、話しておられた。
召天式の最後に、親族を代表して喪主の喜美江さんから、興味深い功さんとの体験談が話された。功さんは一ヶ月近く意識不明の昏睡状態であったが、去年の暮れまでは元気であった。元気な頃、功さんは喜美江さんの顔をマッサージしてくれた事があったようだ。ウトウトするうちに、目が覚めたら1時間近く経っており、その間一生懸命顔のマッサージを続けていたようである。箸を掴むことさえままならない病弱な体力であったが、ただひたすらマッサージをしてくれた。
そして、功さん曰く
「自分はここにきて、人間に一番必要なものは愛だということが良く分かった。お前は顔の筋肉が固いから、何時もしかめ面に映る。だから人から愛されるように努めない。そのためにも、けして笑顔を絶えしてはいけない。人に接するときは笑顔で接しなさい」と。
おそらく、病状が日に日に悪化の一途を辿り、どうしてこうなるのか、不幸を全部自分一人で背負っているかの如く顔色も曇っていたかも知れない。その緊張を少しでもほごそうと、必死の思いで、マッサージを続けていたのだろう。
私は、彼女のその体験談を聞きながら、かつてイエス・キリストが十字架に架かるその前の日、12名の弟子を集めて、最後の晩餐の時に、弟子の一人一人の足をご自分の手で洗いながら、お互いが愛し合いなさいと戒められた状況と重なってきた。
人は自分自身に固執すると、周囲が見えなくなり、世の中の不幸を自分一人で背負っているように錯覚する。「なんで、私だけが」と考え、他と比較し始め、不平不満を口にする。やたら正義を連発するようになり、「自分は正しい、間違っているのは彼らだ」と責任を転嫁する。そのような自分に誇りが持てなくなり、自己嫌悪に陥る。自己嫌悪に陥ったら、顔もこわばり、きつい顔になり周囲を増々寄せ付けない。
かつてのイエスの弟子もそうであった。自分が偉い、自分は特別なんだ、と自我意識が強く、お互いがお互いを見くびっていた。私の方が絶対にこの人よりは偉いんだ、自我意識の固まりだった。だから互いが助け合う、支え合うことはなかった。そこでイエスは言われた。「私は仕えるためにきたのであって、仕えられる為にきたのでない。先生である私がそのようにやったのだから、あなた方も、そのようにしなさい。」と。そして、一人一人の足を洗われた。これは個人のプライドがあるとなかなかできない。プライドが完全に無くなった時にできる。自分は神の子だとのプライドがあると、なかなか弟子ひとりひとりの足は洗えない。
だから、個人のプライドを捨てて、お互いお互いに尽くし合うことの大切さを、身を以て示された。
功さんも男だ。私も同じ男として功さんの気持ちは良く分かる。男としてのプライドがある。なんでわざわざ自分の妻のために、病弱な体を鞭打って、1時間近くも、妻の顔のマッサージをしなければならないんだ。そんなことをすると自分が惨めではないか。自分が哀れに見えるのではないか。色々な思いが錯綜する。
個人のそのようなプライドがすべてふっきれたときに行動に出れたのではないだろうか。
それは少しでも顔の表情を和らげて、皆から慕われるように振る舞ってほしい、との思いではなかったのだろうか。
私はふと思った。
まさに2000年前にイエスのとった行動そのものではないか。
顔と足の違いはあるが、自分のプライドに囚われていると自分が身動きが取れなくなる。そこに行動が伴わないと、愛が冷え、冷めきった人間関係になってしまう。何の希望も情熱もない社会になってしまう。
功さんが、「ここにきて分かったことは愛が一番大切だという事」と繰り返し、喜美江さんに語ったということは、キリストの真理を悟った言葉ではなかっただろうか。
少なくとも私は昨日の喜美江さんの話しを聞きながら、強く神の愛の尊さをしみじみ感じた。
またしても大きな学びができた。
功さんありがとう。
貴重なメッセージ、良く分かりました。
私も実践の中から、それを確認していきたいです。
召天式の最後に、親族を代表して喪主の喜美江さんから、興味深い功さんとの体験談が話された。功さんは一ヶ月近く意識不明の昏睡状態であったが、去年の暮れまでは元気であった。元気な頃、功さんは喜美江さんの顔をマッサージしてくれた事があったようだ。ウトウトするうちに、目が覚めたら1時間近く経っており、その間一生懸命顔のマッサージを続けていたようである。箸を掴むことさえままならない病弱な体力であったが、ただひたすらマッサージをしてくれた。
そして、功さん曰く
「自分はここにきて、人間に一番必要なものは愛だということが良く分かった。お前は顔の筋肉が固いから、何時もしかめ面に映る。だから人から愛されるように努めない。そのためにも、けして笑顔を絶えしてはいけない。人に接するときは笑顔で接しなさい」と。
おそらく、病状が日に日に悪化の一途を辿り、どうしてこうなるのか、不幸を全部自分一人で背負っているかの如く顔色も曇っていたかも知れない。その緊張を少しでもほごそうと、必死の思いで、マッサージを続けていたのだろう。
私は、彼女のその体験談を聞きながら、かつてイエス・キリストが十字架に架かるその前の日、12名の弟子を集めて、最後の晩餐の時に、弟子の一人一人の足をご自分の手で洗いながら、お互いが愛し合いなさいと戒められた状況と重なってきた。
人は自分自身に固執すると、周囲が見えなくなり、世の中の不幸を自分一人で背負っているように錯覚する。「なんで、私だけが」と考え、他と比較し始め、不平不満を口にする。やたら正義を連発するようになり、「自分は正しい、間違っているのは彼らだ」と責任を転嫁する。そのような自分に誇りが持てなくなり、自己嫌悪に陥る。自己嫌悪に陥ったら、顔もこわばり、きつい顔になり周囲を増々寄せ付けない。
かつてのイエスの弟子もそうであった。自分が偉い、自分は特別なんだ、と自我意識が強く、お互いがお互いを見くびっていた。私の方が絶対にこの人よりは偉いんだ、自我意識の固まりだった。だから互いが助け合う、支え合うことはなかった。そこでイエスは言われた。「私は仕えるためにきたのであって、仕えられる為にきたのでない。先生である私がそのようにやったのだから、あなた方も、そのようにしなさい。」と。そして、一人一人の足を洗われた。これは個人のプライドがあるとなかなかできない。プライドが完全に無くなった時にできる。自分は神の子だとのプライドがあると、なかなか弟子ひとりひとりの足は洗えない。
だから、個人のプライドを捨てて、お互いお互いに尽くし合うことの大切さを、身を以て示された。
功さんも男だ。私も同じ男として功さんの気持ちは良く分かる。男としてのプライドがある。なんでわざわざ自分の妻のために、病弱な体を鞭打って、1時間近くも、妻の顔のマッサージをしなければならないんだ。そんなことをすると自分が惨めではないか。自分が哀れに見えるのではないか。色々な思いが錯綜する。
個人のそのようなプライドがすべてふっきれたときに行動に出れたのではないだろうか。
それは少しでも顔の表情を和らげて、皆から慕われるように振る舞ってほしい、との思いではなかったのだろうか。
私はふと思った。
まさに2000年前にイエスのとった行動そのものではないか。
顔と足の違いはあるが、自分のプライドに囚われていると自分が身動きが取れなくなる。そこに行動が伴わないと、愛が冷え、冷めきった人間関係になってしまう。何の希望も情熱もない社会になってしまう。
功さんが、「ここにきて分かったことは愛が一番大切だという事」と繰り返し、喜美江さんに語ったということは、キリストの真理を悟った言葉ではなかっただろうか。
少なくとも私は昨日の喜美江さんの話しを聞きながら、強く神の愛の尊さをしみじみ感じた。
またしても大きな学びができた。
功さんありがとう。
貴重なメッセージ、良く分かりました。
私も実践の中から、それを確認していきたいです。
2012年04月15日
訃報 与儀功兄召天す 享年46

与儀功さんは、与儀喜美江さんの夫で、長年病気療養中でしたが、先月の中旬より危篤状態となり、13日のPM11:49分に天に召されました。本日15日、本人の所属するワールドキリスト教会で、多くの参列者が見守る中、召天式が執り行われました。教会の召天式に参加するのは、初めてですが、一般の告別式とは違って暗さがなく、本当に天国に旅立つ人を、暫くの間、別れを惜しむような雰囲気を感じました。
私とは3年ほど前に、与儀喜美江さんの「おきなわルーツ紀行」の本を発行するようになってから知り合いました。私がキリスト教に関心を持ち始めたのは喜美江さんのキリストに対する信仰を通して、この人のいう神とはどういう神なんだろう、真剣に学ぶうちに少しづつ、キリストの福音が理解できるようになりました。本の発行に関しては、いつも喜美江さんに寄り添い、裏で喜美江さん強くを支えていたのは夫の功さんでることは、日を追うごとによく分かりました。喜美江さんは、人が理解していようが、してまいが自分が理解した神のみ言葉を、正確に伝えようと全力投球するタイプの人ですが、功さんは相手の理解に応じて説明される方でした。私としては、キリスト教の知識が全く無かった為に、同じ男性同士で、キリスト神学を学ぶにあたって、とても参考になりました。
私が初めて「置換神学」という言葉を聞いたのも彼からでした。「置換神学」とは、ユダヤ人は神から選ばれた契約の民であるが、2000前に神がメシヤ(救い主)を送ったにもかかわらず、イエス・キリストを殺害することによって、選民としての権利を失い、選民としての役割はキリスト教徒に受け継がれた。だからユダヤ人は選民でも何でもなく、神の摂理はキリスト教徒が、ユダヤ人に取って代わって、その役割を果たすべきだ、とする考え方です。
この考え方が完全に間違えている事は、私もようやく理解できるようになりましたが、今の西洋キリスト教が完全に行き詰まっているのも、その間違いに気づいていないからだと思います。
功さんが、その西洋キリスト教の矛盾に気づき、奥さんの喜美江さんと一緒になって、今までキリスト教に見下されてきた沖縄の風習に光を当てたのも、本来のキリスト者としての歩むべき道を模索していたからだと思います。別に沖縄の風習を擁護せんがためにやっているのでなく、ユダヤと沖縄の風習が似ているから、そこにどういう意味があるのか明確にしたいとも話しておりました。
私も最近になって、ようやく彼の心意気が分かるようになりました。
召天式式次第の中に、功さんの略歴が次のように紹介されています。
1967年10月6日、父与儀誠孝、母紀子のもとに長男として小禄に生まれる。幼少の頃、具志頭村に移り住み、そこでのびのびと育つ。中学、高校では、生徒会長をつとめた。大学時代、友人を通して、聖書に出会い、洗礼を受ける。教会では長年、PA(音響)の奉仕をつとめた。2012年4月13日、11時49分、神様の恵みと平安の中で召天された。
功さんの冥福を心よりお祈りします。
2012年04月12日
二科会沖縄支部長西村貞男さんに書評を依頼しました

野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」より
昨日、野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」が入荷したので、二科会沖縄支部長西村貞雄さんにお会いして、本が出来た事を報告し、書評を書いてくれるよう依頼しました。野津さんは二科会の会員ではありませんが、二科会にも多数出展し、入選もしておられます。西村貞雄さんには、今回の本の最後に「野津唯市を語る」として、寄稿して貰いました。
野津唯市さんの風景画には、ほとんど人物が入っており、ストーリー性があるために画面構成が面白い、と話しておられました。
ストーリー性があるということは、描かれた一人一人に物語があるということです。
物語があるということは、互いがその人の立場、役割を理解し、ともに助け合って生きている、ということに他なりません。だから、野津さんは描かれている一人一人について、そして互いがどういう関係にあるのか、ひとつひとつ説明されます。その話を聞きながら絵画を眺めていると、自分の心の底に眠っている魂が揺さぶられるような感動を覚えるのだと思います。
野津さんの作品は、ほとんどが戦前の沖縄の日々の生活が描かれていますが、不思議なことに戦前の事を全く知らない若者にも、野津さんの話しを聞いていると、胸に迫ってくるものがあると言います。年輩の方が作品を見て、昔の懐かしい姿だと、胸に迫るものを感じるというなら分かりますが、それを知らない人が、胸に迫るものを感じるというのは、単なる郷愁の思いだけから来るのではありません。
それは「輝く命」「強い絆で結ばれた世界」を
ひとりひとりが感じ取るからではないだろうか。
「輝く命」「強い絆で結ばれた世界」は野津さんにとって、戦前の沖縄だったかも知れませんが、ひとりひとりには誰もが「絆で強く結ばれた世界」をもっています。
「絆」の字は、糸+半で出来ています。
糸には繋ぐ、一つにするという意味があります。
そうです!
人間には完全・完璧はいません。
どこか欠けています。
完全でいるのは神のみです。
人間は半分で半分で出来ています。
半分同士がひとつになって完成します。
本来なら、互いが互いを必要とするように創られています。
互いが互いを必要としていることを認め合った世界こそが
「絆で強く結ばれた世界」ではないでしょうか。
その時、お互いがお互いの役割を果たせるのです。
自分は今、何をすれば良いかを見出すのです。
そこに「輝く命」があるのです。
野津さんの作品ひとつひとつは、
「輝く命」を見失い、
眠っている現代人の魂を覚醒させる力があると
西村貞雄さんと話しながら、その思いを強くしました。
2012年04月11日
野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」、早速注文が入りました

野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」より
いや〜、ビックリしました。ブログに入荷したことをアップして30分後です。注文は東京からです。一人が2冊も注文しています。野津さんのファンは県内に止まらず、県外でも反響があることを知り、嬉しくなりました。画集は南城市玉城にある浜辺の茶屋、山の茶屋でも販売しています。
しかし、何故、野津さんの作品は、地域を越え、世代を超え、性別を超えて影響力があるのでしょう、色々と考えてみました。
この画集を最初に企画立案した、山の茶屋店主稲福米子さんの話されたことを思い出した。
「野津さんの作品は、若い人でもとても感動する。若い世代は、戦前の沖縄を知っている訳はなく、ただ単に懐かしいという思いで見ているはずではない。絵を見て感動のあまり鳥肌が立ったという人もいた。これは絵の背後にある何かを感じているからではないか」
私は米子さんのこの言葉は、いつも気になっていた。
どのような作品であれ、鳥肌が立つぐらい感動を与えるというのは、尋常ではない。実際、野津さんが出品する展示会場には、野津さんの作品の前に人集りができ、作品について色々な質問が飛び交う。野津さんの作品だけは活気がある。他者に追随を許さない強力なインパクトがある。
どうして、貴方の所にだけ人が集まるんだ、同僚からもぼやかれる。
私はここにきて増々、野津さんの作品のテーマが「命」を扱っているからだとの確信を強くしている。
「命」、「輝く命」である。
その源は「絆」である。
絆で強く結ばれてこそ、人は自分の存在意義を見出し、
さらに強い絆を求めて、互いが協力して助け合い
命が輝き出すのである。
今回の東日本大震災で誰もがこの「絆」の大切さを
かみしめたのではないだろうか。
親と子、妻と夫、家族、地域、日本全体、いや世界までが
世界はひとつであることを意思表示してくれた。
人はひとりでは生きられない。
いや、生きているものはすべてが
単独では存在しえない。
互いに助け合い、支え合って生きている。
それが本来の生きているものすべてのあるべき姿である。
野津さんの作品に描かれている世界も
その絆で強く結ばれた世界である。
それが我々の命の源である。
それで、私は今回の画集のタイトルの副題に
「和合…神・人・自然・暮らし」に入れるよう提案した。
それは、強い絆で結ばれた世界こそが本来あるべき姿であり
互いが互いを必要とし、助け合う世界
そこにこそ活力があるのである。
生きる力があるのである。
野津さんの作品から、多くの人が希望を与えられるのは
そこに生きる力が描かれているからである。
「絆で強く結ばれた世界」
それは野津さんの場合、たまたま幼年期で目撃した戦前の沖縄の姿だった。
しかし、人それぞれ「絆で強く結ばれた世界」を持っており
野津さんの作品が、その心の底に潜む魂の叫びを呼び起こすのであろう。
是非一人でも多くの人に見て頂き
各々の「絆で強く結ばれた世界」に触れてほしいものだ。
ちなみに和合とは、沖縄の神人の祝詞によく出てくる言葉で
調和、一体感(心をひとつにすること)を言います。「絆」を沖縄口に直した意味で使っています。
野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」は球陽出版のHPでも受け付けています。
http://kyuyou-shuppan.com/booklist/nozu-gasyuu.html
2012年04月10日
野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」入荷しました

野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」より
本日、画集がすべて入荷しました。発行は3月30日でしたが、3月は年度末にあたり、印刷所も製本所も込み合って、分納で先月半分だけ、本日残り半分が入荷しました。上記の絵画は本文34頁にある与那原の大通りを描いたものです。そこに生きている人達の躍動感が見る人に伝わってきます。
著者の野津唯市さんは1927年生まれ、10歳で東京から沖縄に転居、那覇市、それから大里村で育った。65歳で定年退職後から本格的に油絵を描き始めた。沖展、りゅうせき美術展、沖縄芸術美術展、名護市あけみよ展、那覇市民芸術展、二科展などにも多数入選している。どの展示会場でも人集りができることで良く知られています。
何が人々の心を惹き付けるのでしょう。野津さんの芸術的なセンスもさることながら、私は野津さんの取り上げているテーマがユニークだからだと勝手に思っている。
そう!テーマのユニークさです。
野津さんが扱っているのは、単なる風景画、人物画ではないのです。そこに生きている「命」をテーマにしています。
「生命」です。
単なる命ではありません。
「輝く命」です。
人はただ生きているだけでは、「命」に輝きはありません。
人が生きているという実感を持つのは他との関わりで出てきます。
自分はこの人のために役に立っている、
必要とされているという実感があってこそ、
自分の持てる力を余す事なく発揮し、
生き生きとし、その命が輝きます
自分は誰からも必要とされてないと感じる時、
何の為に生きるのか、その希望を失い、
生きる気力さえ無くしてしまいます。
お互いがお互いを必要としている世界
これこそが、人々に生きる活力を与える源です。
まさに「絆で強く結ばれた世界」です。
野津さんの作品に魅かれるのは
人々がそのような強い絆で結ばれていた時代
それを彷彿とさせるからではないでしょうか。
現代社会は、ものは豊かになりましたが、
お互いの絆が年々薄くなっております。
お互いがお互いを必要としなくなっております。
現代人が抱える閉塞感も
詰まる所、自分がこの社会に必要とされてはないと、
勝手に思い込み、
互いの必要性を見失ってしまっているからです。
野津さんの作品は、この失いつつある「絆」を
呼び起こしてくれます。
明日から書店に並びますので
是非手に取ってみて下さい。
失いかけている「絆」を見出すはずです。
球陽出版のHPでも注文受け付けています。
http://kyuyou-shuppan.com/booklist.html
このブログを見て注文された方に限り、送料は無料でお送りします。
「ブログ見た」と一言添えて下さい。
2012年04月09日
思いもよらぬギフトが西口賢治さんより届きました

先日、西口賢治さんより、またしても思いもよらぬギフトが届きました。月桃紙に描かれた絵画と詩です。中城グスクに浮かぶ満月とそれに詩が添えられています。
詩には、こう書かれています。
門中家屋を祀り
光を弘(ひろ)め呉(あた)えて
子孫繁栄して
成幸する
「成幸」するという所がいいですね。
成功でなく、成幸です。
成功とは功績が成ると解せます。
人は「功績」を追い求め、自分の「功績」を認めてもらうため
努力するが、ややもすると肝心の自分自身を見失ったままです。
いかなる「功績」も
自分自身を失った「功績」では何の意味もありません。
何の価値もありません。
単なる自己満足の「功績」は
自分に希望も夢も与える事は出来ません。
自分自身に対する誇りすら与えることはありません。
少しでも困難に会うとすぐに自信喪失し、
自己嫌悪に陥ってしまいます。
我々が求めるべきものは「功績」ではなく
まずは「幸」であるべきです。
幸せになりたいから、
幸せになってもらいたいから
日々の生活があるはずです。
何か特別な「手柄」をあげるために
生きているのではありません。
目先の「手柄」だけに翻弄される人生は
もう止めましょう。
中城グスクの城壁の夜空に浮かぶ
月を見ながら、
今自分がどういう歩みをしているか
考えさせられてしまいました。
西口さん、心温まる力強い作品本当に有り難うございました。
私の家の家宝として、事務所に飾り、
自分の心を日々磨いていきたいと思います。
タイムリーなギフトです。本当に感謝です。
メッセージはしかと受け止めました。
小波津智恵美さんの分も、昨日手渡しました。
とても喜んでおりました。
不思議な出愛に感謝だと話しておりました。
2012年04月08日
門中の神御清明に行ってきました

4月8日は清明の節に入って最初の日曜日です。私の所属している西原町の仲伊保門中は、1992年に門中会が結成され、門中の清明祭は清明の節入後の最初の日曜日と決め、今日がその日です。門中会ができてからは、毎年案内のハガキが届き、日程も詳しく書いてあるので、若い世代もだいぶ増えてきたように感じました。
門中会が出来た時に系図も作成しましたが、県内・県外で約80所帯、国外、南米・北米・ハワイ等にも40所帯ほどあり、全体で120所帯ほどありました。案内は県内に住んでいる方々約60所帯に出しているとおもいます。仲伊保門中は北山最後の王、攀安知王の三男の子孫だと伝えられております。
今回清明祭に参加したのは約40名ほど、各所帯別に車に分乗して、車十数台連ねていきました。廻る所は6ヶ所で、朝9時に仲伊保本家を出て、最後の参拝地今帰仁墓を拝み、西原慰霊塔の広場で、お供え物をウサンデーして現地解散します。具体的に廻る場所は、以前に記事に書きました。今回の清明祭は、首里の方から大城秀一さん家族が見えられ、非常に賑わったものとなりました。
そして今回は東京から珍しいお客さんが来られました。松尾あずささん、法政大学大学院人文科学研究科修士課程2年生。東京生まれ、東京育ちで、沖縄の門中に関心があるとのことで、球陽出版のHPから取材の申入れがあり、私の方から門中の当主大城純孝さんを紹介し、直接清明祭の行事に参加することになりました。取材の中で当主の大城純孝さんの大学の後輩でもあることが分かり、門中の役員の許可も出て今日の参加となりました。20年前に復帰20周年の国特別事業として、首里城が復元され、NHKの大河ドラマに「琉球の風」も決定し、沖縄ブームが始まりました。
私はあの時、思いました。
今はただ沖縄の外の形に人々の目が奪われているが、いつか沖縄の内面の部分、何故沖縄が一致団結して県民が誇りをもって歩んでいるのか、その精神性の部分に目を向ける人達が出てくる。その頃から系図作成を始めましたが、今日来ている若い世代を見て、私が先輩方から伝え聞いたのは、私の代でしっかり語りつがなければならないと、つくづく思いました。
松尾さんのような方はこれからもどんどん現れると思います。沖縄大好きで、何かしら沖縄に魅かれるという人、以外と沖縄の地元の人間が沖縄の本当の良さをまだ認識してないかと思われました。

そして、仲伊保門中の現在の14代目当主大城純孝さんが6月の県議選に出馬することも報告されました。去年の12月に急に決まったようで中頭地区から出馬します。定員5名に対し6名が立候補します。仲伊保門中でも門中の誇りとして応援しようと会長の大城進一さんから呼びかけもありました。仲伊保門中も今新たな一歩を踏み出し、例年になく活気に満ちた清明祭になりました。
2012年04月07日
馮氏諸見里家に系図の調査結果を報告しました
昨日は馮氏諸見里家の代表の方々を、糸満武富に集まって頂き、今まで調査してきた諸見里家の系図調査の報告をしました。馮氏は首里士族と、那覇士族がありますが、今調査しているのは首里士族の諸見里家です。ちなみに首里士族系統の馮氏は、名前の最初に「安」の一字が使われております。一方、那覇士族の馮氏は、名乗り頭は「清」です。ですから区別はすぐにつきます。
集合して頂いたのは糸満武富の安次さん宅です。安次さんは、野村流古典音楽協会の副会長の要職も務められ、三味線教室も開いておられますので、教室の中で報告会が行われました。
糸満市武富は明治になって士族の方々が住みついてできた集落で、一般にヤードイ(屋取り)部落と呼ばれています。地番は糸満ですが、東風平と豊見城と両方に股がって境界線が隣接しています。これは安次さん宅から見た風景で、遠くに見えるのは豊見城市です。

当日は安栄さんより、今までの調査経過が報告されました。安栄さんは諸見里家の実力者で、現在の諸見里ポートリー創業者です。沖縄を代表する養鶏業の要職も数々担ってこられました。1年間、私と一緒に役所、そして分家筋を一軒一軒訪ね歩き、馮氏の全体像をまとめて下さいました。馮氏一門は沖縄全県的な子孫の広がりを見せており、具志川、久米島、沖縄市、北谷町、宜野座村、那覇市、糸満市、与那原町と多くの地域にまたがっております。
子孫が全県的にまたがっている為に、元祖諸見里安春からどのように末広がっていったのか、宗家ですらハッキリつかんでおりませんでした。そこで諸見里家の家譜を、大学教授に一字一句現代文に訳してもらいました。今では元祖から始まって、子孫がどのように末広がって行ったのか、ハッキリ分かります。糸満に島尻諸見里として、どのように辿ってきたのか、糸満に移ってからの生活がいかほど苦労してきたものか、切々と語られました。そして、自分は子孫の歩みを皆さんに正しく理解して貰いたいとの思いで、必死に調べてきた。祖父、曽祖父がいかに苦労して、ここまで我々を守ってきてくれたか、少しでも感じてもらいたいと話されました。

最後に、球陽出版の家系調査員知名直子さんより、武富集落のヤードィと島尻諸見里との関係を、糸満市史と字史から調べた内容が報告された。東京生まれ、東京育ちの彼女ですが、集まった人達より、ヤマトゥで言葉の壁もあるのに、よく調べてくれたと皆さん感心しておりました。
本当にそうです。
球陽出版の家系調査も彼女が来てから、だいぶ変りました。以前の系図調査はほとんどが士族中心で、まず氏(うじ)を調べ、家譜が現存するかどうかを、那覇市歴史博物で調べました。そして、その士族と関係ありそうな名前を電話帳で一軒一軒調べ、聞取り調査で作業を進めました。正直な話、平民の場合、どこからどういう具合で調査すれはいいのか、不安な部分がありました。
しかし、直子さんは沖縄市の嘱託職員として、地域史を担当した経験があり、色々な方からの聞取り調査をやっておりました。そのため平民の資料も、各市町村史あるいは字誌に細かくまとめられており、平民の調査も字誌を活用すれば充実した調査が可能であることを教えてくれました。お陰で球陽出版の系図調査も幅が広がりました。
2012年04月05日
改製原戸籍収得の勧め
昨日、高知県の宮城家より系図の注文がありました。依頼主は36歳の会社員。もともとは沖縄県国頭村奥の出身だが、現在は本籍地も高知県に移籍されている。おそらく何代か前に高知県に移住し、何代か経ってから本籍地も移したと思います。自分の代で調べられるのは整理して記録に残しておきたいとの事で、FAXでの申込です。
球陽出版は、沖縄県で家系調査もやっている唯一の出版社です。HPをリニューアルしてから、日本全国から沖縄県人会の方を中心に、問い合わせが増えてきました。
系図を作るときは、明治以前と明治以後に分けて調査を進めます。明治以後の調査は戸籍で調べます。それは本土も沖縄もやり方は同じで、明治から平成までだと、戸籍を取れば、だいたい6〜7代までは誰でも簡単に作れます。戸籍を整理してみれば分かる事ですが、1代の平均代数はだいたい25年で、平成24年を明治で換算すると145年になります。145÷25=5,8で、明治、大正、昭和、平成までに約6、7代の系図ということになります。
よく「戸籍だけで明治からの系図を本当に作る事が出来るのか」と質問される方がおられますが、簡単に誰でも作れます。
そういう質問をされる方は、戦後の戸籍だけを念頭に発言されていると思いますが、確かに戦後の戸籍だけでは作る事はできません。戦後の戸籍は、日本国憲法が制定されてから戸籍法が改正され、戦前にあった戸籍を改制して作り変えられております。今まであった戸籍を完全に作りかえて、作成されているのです。戦前の戸籍は、子、父母、祖父母、曾祖父母と四代まで一つの戸籍に記載されていました。ですから一つの戸籍をとればその親族の繋がりが簡単に分かるようになっていました。
しかし、戦後アメリカ型の民主主義が導入され、四代一つの戸籍に入れるのは封建的だとして、今まであった戸籍を全部バラバラにして、親と子しか載らないように作りかえております。ですから戦後の戸籍では、親と子しか載っていませんので、この親がどこから来たのか全く分からないのです。あるいは、この親とこの親は兄弟であると分かっていても、確かめようがないのです。親と子2代しか載らないように作られいるので、その上がどうなっているのか、戦後の戸籍では全く分からないという事です。
だから戦後の戸籍を戦前の戸籍と同じだと考えると、何故戸籍だけで明治以降の系図が作れるだと疑問が出てきます。戦後の戸籍は昭和23年から約10年かけて、戦前にあった戸籍を作りかえて、作制されたものです。ですから作りかえる前の戸籍、子、父母、祖父母、曾祖父母が一つに記載されている戸籍をとらなければ、親族の繋がりが全く分からないという事です。
日本は戦争に負けて、アメリカの指示に従って、戸籍も全部作りかえました。しかし、作りかえる前の戸籍は破棄処分したのでなく、80年間は役所で保管するように定めて、今役所で大切に保管しています。80年といっても、あっという間です。あと数十年もたてば80年がきます。今後、どのように保管継続するか決まっておりません。できれば今の内に、戦前にあった戸籍、戦後作りかえる前の戸籍(改製原戸籍)を各自で取って、系図を作って大切に保管されることをお勧めします。
ちなみに、系図の申込は球陽出版の公式HPで宜しくお願いします。
http://kyuyou-shuppan.com/index.html
球陽出版は、沖縄県で家系調査もやっている唯一の出版社です。HPをリニューアルしてから、日本全国から沖縄県人会の方を中心に、問い合わせが増えてきました。
系図を作るときは、明治以前と明治以後に分けて調査を進めます。明治以後の調査は戸籍で調べます。それは本土も沖縄もやり方は同じで、明治から平成までだと、戸籍を取れば、だいたい6〜7代までは誰でも簡単に作れます。戸籍を整理してみれば分かる事ですが、1代の平均代数はだいたい25年で、平成24年を明治で換算すると145年になります。145÷25=5,8で、明治、大正、昭和、平成までに約6、7代の系図ということになります。
よく「戸籍だけで明治からの系図を本当に作る事が出来るのか」と質問される方がおられますが、簡単に誰でも作れます。
そういう質問をされる方は、戦後の戸籍だけを念頭に発言されていると思いますが、確かに戦後の戸籍だけでは作る事はできません。戦後の戸籍は、日本国憲法が制定されてから戸籍法が改正され、戦前にあった戸籍を改制して作り変えられております。今まであった戸籍を完全に作りかえて、作成されているのです。戦前の戸籍は、子、父母、祖父母、曾祖父母と四代まで一つの戸籍に記載されていました。ですから一つの戸籍をとればその親族の繋がりが簡単に分かるようになっていました。
しかし、戦後アメリカ型の民主主義が導入され、四代一つの戸籍に入れるのは封建的だとして、今まであった戸籍を全部バラバラにして、親と子しか載らないように作りかえております。ですから戦後の戸籍では、親と子しか載っていませんので、この親がどこから来たのか全く分からないのです。あるいは、この親とこの親は兄弟であると分かっていても、確かめようがないのです。親と子2代しか載らないように作られいるので、その上がどうなっているのか、戦後の戸籍では全く分からないという事です。
だから戦後の戸籍を戦前の戸籍と同じだと考えると、何故戸籍だけで明治以降の系図が作れるだと疑問が出てきます。戦後の戸籍は昭和23年から約10年かけて、戦前にあった戸籍を作りかえて、作制されたものです。ですから作りかえる前の戸籍、子、父母、祖父母、曾祖父母が一つに記載されている戸籍をとらなければ、親族の繋がりが全く分からないという事です。
日本は戦争に負けて、アメリカの指示に従って、戸籍も全部作りかえました。しかし、作りかえる前の戸籍は破棄処分したのでなく、80年間は役所で保管するように定めて、今役所で大切に保管しています。80年といっても、あっという間です。あと数十年もたてば80年がきます。今後、どのように保管継続するか決まっておりません。できれば今の内に、戦前にあった戸籍、戦後作りかえる前の戸籍(改製原戸籍)を各自で取って、系図を作って大切に保管されることをお勧めします。
ちなみに、系図の申込は球陽出版の公式HPで宜しくお願いします。
http://kyuyou-shuppan.com/index.html
2012年04月04日
西口賢治さんよりお礼の品々が届く

ブログに私の書いた記事で「引き寄せの法則」のDVDがどういうものか知りたいとの問い合わせが、チャリティー遊書展で活躍されている西口賢治さんよりあり、貸し出し用に手元にあることを伝え、郵送して見て貰った。早速、西口さんから数々のメッセージと色紙、365日年中夢求の本が送られてきた。ただただ感謝である。言葉の持つ力を改めて教えられたような気がする。
西口さんは同じてぃだブロガー仲間だが、いつも上位にランクされ、アクセスも多いときは500件以上ある。私は後ろの方から数えた方が早いアクセスしかないが、わざわざ目に止めて下さり、コメントも寄せて、読者登録もされた。この謙虚さと、誠実さにいたく感動し、私も西口ファンになった。
年中夢求、素敵な言葉だ。年中無休とは大違いだ。年中無休だと365日休みがなく、哀れで恨みだけの人生に聞こえる。年中夢求だと発音は同じでも、365日夢に向かって生きているという躍動感がこちらまで伝わってきる。言葉もその人がどういうイメージをもっているかによって、自分にわき上がってくる感情が全く違ってくる。私が「365日年中夢求」の言葉を最初に目にしたのは、吉澤直美さんのブログであった。素敵な言葉使いで、毎日の生活が楽しくなるようなイメージを与えてくれるものだと感心していた。それが、思いも寄らぬ出会いから、その言葉を創った西口さんとブログで直接知り合う事になり、本当に驚きである。吉澤さんが西口さんのファンクラブの会長をやっておられるのは後で知った。
お礼の品の中に永六輔さんの詩も西口さん筆による色紙も入っていた。おそらく、私に必要な言葉を真剣に考えて、書いて送って下さったと思うが、いつも相手の立場に立って歩まれる西口さんの誠実の人柄が、こちらに良く伝わり、とても嬉しくなった。今、新刊の野津唯市画集の本が出て、命とは何か考えさせられる事が多くなった。このようなタイミングで西口さんから頂いた数々のメッセージは本当に有り難い。人の命の輝きは、その人のために何か役立つことをやってあげたいと思ってやる時に、その人の命が輝くものであることをお礼の品々を見て教えられた気がする。
西口さん、心のこもったお礼の品々、有り難う。
本当に、出愛に神謝です。
2012年04月03日
小林ゆうこさんと野津唯市画集で意見交換

東京から取材のため小林ゆうこさんが来沖され、球陽出版で発行した野津唯市画集について、色々と意見交換した。小林さんは大の沖縄ファンで、沖縄には何度も足を運んでおられる。特に沖縄のルーツに関心が高く、天孫子王朝のルーツと日本の神話との繋がりを積極的に取材しておられる。私とは「おきなわルーツ紀行」を2年前に発行してからのお付き合いである。
ゆうこさんには今回、野津唯市さんの画集を発行するにあたって、取材の合間を計らって、編集も手伝ってもらった。
画集の出版計画は2年ほど前からあり、山辺の茶屋店主・稲福米子が野津唯市さんに働きかけをしていた。しかし、なかなか話が進まない。そこで1年ほど前に、球陽出版に画集を出したいとの相談があった。山辺の茶屋では、野津さんの常設ギャラリーが約40点の絵が展示されている。県内だけでなく、県外、国外からも多くのお客が訪れる。
野津さんの作品を見た人は大きな衝撃を受けるようだ。中には鳥肌が立つほど感動したと感想を残される方もいることを聞き、この作品のどこにそのような力があるのか、その魅力を知るために、画集の出版を手伝おうと決意した。関わるうちに、野津さんの作品の持つ魅力がどこにあるか、少しづつ見えてきた。
野津さんが言う「単なる画集を出したいのではない」という意味が分かってきたような気がする。
そう!単なる画集ではない。
作品のひとつひとつを良く良く見ると、単なる風景画ではない、単なる人物画でもない、そこに生きている命が描かれている。されは単なる命ではなく、輝ける命である。自然が、そこに暮らす一人一人が生き生きしている。その躍動感が見る人を熱くし、そこに希望と夢があることを知る。
そうか、命は単独では輝くことなく、他との関わりの中で初めて喜びと希望に抱き、生き生きとする。
昔流行った「愛染かつら」の2番目の歌詞に、「かわいい子どもは、女の命」というのがあった。
私は当時小学生だったので、ストーリーの内容はよく分からなかったが
たしか医師と看護婦の純愛物語ではなかったと思う。母親はいつも、食い入るようにテレビに釘付けになって見ていた。
今、野津唯市さんの画集を発行して「かわいい子どもは、女の命」の言わんとする意味が分かったような気がする。
母子家庭で小さなこどもを抱えて、この子のために自分の持てる全て使って
この子が安心して暮らせるように、自分のすべて捧げたい、
という事ではないかと思う。
輝ける命とは、まさに生き生きとした命、
この子のためにこういうことをしよう
こういうこともして、喜ぶ姿を見たいという生き方が
その人を輝かせるものだと思う。
そういう人は、側から見ていて生き生きとしている。
自分が必要とされているから
その必要に積極的に満たしたいという思いが
その人を生き生きとさせるのでは、
ないだろうかと思う。
現代人が抱える閉塞感は
自分はこの世から必要とされてないとする疎外感
どこに自分を必要としている所があるのか
それを探し出す事ができず
苦悶している姿ではないだろうか。
しかし、野津さんの描き出す命は、一人一人がいきいきとしている。
私にも微かに面影があるが、
地域にもひとりひとりに存在感があった。
この人は、こういう性格の人だが、こういう良い所を持っている。
と頭の善し悪し、金のあるないに関わらず
お互いがひとつに解け合っていた。
それは懐かしい昔の面影だが、
しかし本来の人間のあるべき姿ではなかろうか。
だから、今回の画集のタイトルも「懐かしい未来 沖縄」にしている。
これは米子さんがつけたタイトルだが、私も非常に気に入っている。
我々が目指すべき未来は、私達の心の奥底に眠っている。
素晴らしい未来が待っているのでなく、
我々の心の奥底に既にそれがあり
生き生きとした未来は既に持っていることに気づくだけである。.
この作品を今の時期に発行できたことは
私にとって、この上ない光栄である。
私自身、この作品を世に流通させることにより
少しでも命の輝きを感じてもらえる手助けができた
と、心が踊るような気持ちである。
野津さん、米子さん、編集を手伝ってくれた小林ゆうこさん、
輝ける命を有り難う。
感謝です。
私は幸せものです。
このような素晴らしい仕事にかかわることが出来て。
2012年03月30日
新刊が出来ました、野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄」

野津唯市画集「懐かしい未来 沖縄/和合…神・人・自然・暮らし」で、球陽出版で本格的な画集を扱うのは初めてです。野津さんの作品は、沖縄の風土や生活文化を見事に表現し、見る人にほのぼのとした懐かしさと躍動感を与えます。その芸術性も高く評価され、沖展をはじめとする二科展や沖縄芸術祭美術展、那覇市民芸術展などでも多数入選し、高い評価を受けています。どの展示会場でも、野津さん作品の前には多くの人が群がり、他の作品を圧倒しています。中には鳥肌がたつほど感動したと、感想をくれる人もいます。
野津さんの作品が、幅広い年齢層に圧倒的な支持を得ている訳を、出版の過程で私自身気づかされたものがありました。
それは、作品一つ一つじっくり見れば分かることですが、作品に画かれているのは単なる風景画、人物画ではありません。あるいは単なる自然でもありません。そこに生きている「生命」が画かれています。輝ける生命です。ただ生きている生命ではなく、輝ける生命です。
作品ひとつひとつには、輝ける生命がどこから来るのか、それを示唆しているようにも見えます。
自然もただ自然があっただけでは、生きたものにはなりません。その自然を受け入れ、日々の恵みに感謝して喜びを表す人間を始めとする動物・植物がいて、そこではじめて生命が輝きます。ですので自然は、それを評価し喜んで認めてくれる対象が必要です。自然も人間も、それぞれが単独では存在しえないのです。お互いがお互いを必要としています。その絆にこそ生命が宿っているのです。
そう1「絆」です。絆はお互いがお互いを必要とする、関わりの中で生存しているということです。
「絆」の中にあってこそ、人も自然も暮らしもすべて輝くのです。
今回の東日本大震災で多くの命を失いました。その命とは何だったのでしょうか。
やはり「絆」ではないでしょうか。
親と子の絆、夫と妻の絆、家族の絆、家族と地域の絆、同じ日本人としての絆、世界的規模では同じ人間としての絆、すべてが絆によって生かされているように思います。
絆を失ってはじめて「絆」の大切さを多くの人が再確認したのではないでしょうか。
現代人の多くが感じる閉塞感も、自分は親から必要とされてない、家族からも必要とされてない、地域からも必要とされてない、この世からも必要とされてないと、勝手に思い込むようになるから、生命に輝きを失ってしまっているのです。しかし、本来の姿はお互いがお互いを必要とする世界であり、お互いがお互いを頼りとする世界です。そこに生命の輝きがあるのです。
今は闇の時代です。
物が豊かになればなるほど、相手を必要としなくなりつつあります。そこは他人を必要としない闇の世界です。
大震災によって闇にひとつの光が照らされました。
それは「絆」です。
お互いがお互いを必要とする世界こそ、本来あるべき姿だと気づき始めました。
そのような時、今回球陽出版で発行した「懐かしい未来 沖縄」の野津さんの画集は
まさに時期をえた出版だと思います。
繰り返しになりますが、野津さんの画集で画かれているのは「絆」です。
多くの人が感動を覚えるのも、作品のひとつひとつに「絆」を見出すからだと思います。
作品の一つ一つに必ずストーリーがあります。この人はこういう人、この人とこの人とはこういう関係があると、画かれている一人一人を全員説明されます。お互い一人一人結ばれている「絆」を綺麗に説明されるのです。説明を聞いていると、この人はこういう理由で、この人を必要としているんだ、と画かれている人達の躍動感が伝わってきます。
来週から書店に並ぶ予定ですので、是非手に取って見て下さい。
定価3,000円(税込み)で球陽出版のHPでも申し込みを受け付けています。
2012年03月29日
ユダヤ人・スマディー家の送別会に参加しました

スマディー家の実家は正統派はユダヤ教徒です。しかし、沖縄在住の方ではありません。沖縄には約160名前後のユダヤ人が住んでいるようですが、スマディーさんはお住いは関西です。イスラエルで日本人男性と結婚して、夫の帰国に伴い日本に移住しました。しかし、色々な事情があって、この度、イスラエルに帰ることになりました。沖縄には一度も来られた事はないのですが、是非沖縄を見てみたいとのことで、大阪の友人かよ子を通して、沖縄のムーン理枝先生とコンタクトがとれ、沖縄で送別会をすることになりました。
ちなみに、白のネックレスと冠を被っているのがムーン理枝先生、その側に座っておられるのがスマディさんです。さらにその両側に座っているのが、スマディーさんの息子と娘さんです。
最初は教会で、送別会をやろうとしたそうですが、スマディーさんの祖父母は、ホロコーストの生き残りで、十字架を見ると、トラウマに悩まされるようです。それで本人も、教会の信徒と会うのはいいが、教会の建物には恐怖感があるとのことで、急遽、北谷美浜のガブリエル・ステーキハウスで行う事になりました。私もお招きを頂き、参加しました。
ムーン理枝先生は、実際にユダヤ人のラビからヘブライ語も学び、ユダヤの暦、伝統行事にも精通しておられます。イスラエルにも何度も訪問し、奉仕活動も活発にやっておられます。旧約と新約の繋がりも、聞いていて非常に分かり易く、とても勉強になります。この人の信仰は本物だといつも感心させられます。私は沖縄からこういう人が現れること自体、神の沖縄に対する期待が大きいものがあると実感させられます。
当日は、ゴスペルシンガーの上原令子さんの歌に合わせて、理枝先生が自らフラを踊って下さり、ユダヤ人家族を歓迎されました。本当に沖縄は凄いです。牧師自らムームーを着けてフラをもって歓迎することも最高ですが、上原令子さんも名の知れたゴスペルシンガーです。このような方々が、ひとりのユダヤ人のために送別会に駆けつけて、自分の持ち歌を惜しみも披露されるのにはビックリしました。
上原令子さんは連帯の挨拶の中で、「自分も小さい頃はハーフと言われ虐めにあった。ユダヤ人もユダヤ人というだけで世界から迫害を受けてきた。だから自分もユダヤ人の気持ちがよく分かる。自分はユダヤ人のイエス・キリストによって救われた。ユダヤ人だから憎まれるのでなく、ユダヤ人だから愛されるという日が必ず来る。いやもう来ている。だから、我々は今ここに集まっている。イスラエルに帰っても自分達のことを思い出してほしい」と切々に語られました。私は思わず涙が溢れ出てきました。異国の地で、このように彼らのことを理解し、励ましてくれる人達が、地図にも載らないような沖縄にいるということは、彼らにとって大きな励みになったに違いありません。神は生きて働いておられると。理枝先生、上原令子さん本当有難うございました。私のような者までお招きを頂き、ただただ感謝です。スマディー一家に平安があるように祈っています。
2012年03月27日
小波津智恵美さんと「引き寄せの法則」

昨日、小波津智恵美さんが来社された。彼女とは4年前に「天使の羽見つけたよ」の本を発行して以来の付き合いである。そして私に「引き寄せの法則」が何かを、具体的に気づかせてくれたのも彼女の生き方であった。そもそもの出会いから不思議なことばかりであった。私が「ザ・シークレット/引き寄せの法則」を学ぶようになり、毎朝そのDVDを見てから出勤するようになった頃、ふと思った。引き寄せの法則で言わんとする事は良く分かった。
要するに、自分の人生を切り開くは自分自身であるから、自分が主体的に動けば、必ず結果が出る。他人任せではいけない、自分が主体性を持って生きれば、自分が望むことは何でも引き寄せることができる、他人は色々なことを言っても、結局、他人が自分の人生に責任を持つ訳ではない。他人は自分の人生に対して無責任である。無責任な人生を歩んでも、何の喜びもない。逆に「あの人がああ言ったから、自分はこうなった」とグチだらけの人生になってしまう。私が人生の創造主であるから、自分の人生に責任を持つようにしよう。
しかし、月日がたつとふと思った。
DVDで収録されているのは、すべてアメリカのことではないか、はたして外国で作られたものが日本でも通用するのか、と疑問をもつようになった。そこで私は自分の心に語りかけた。自分の人生は自分で切り開くということは良く分かったが、外国の事例だけを見せられても私にはピンとこない。だからもっと身近に、私の分かるような形で教えてくれと。
私がその疑問を投げかけた翌日、私の目の前に現れたのが、小波津智恵美さんであった。
考えられますか!
彼女は私と何の面識もない、しかも頼みもしないのにいきなり電話をよこし
「私は小波津知恵美と言いますが、引き寄せの法則を実践しています。近いうちに本を出したいから相談したい」と言ってきた。全く見知らぬ人から、突然電話で、あたかも私の心を見透かしているかの如く、まるで天の使いが私の目の前に現れたような錯覚に襲われた。
しかし、それは錯覚ではなかった。
私が投げかけた疑問に完璧に答える、具体的で身近な私が分かるような形の「引き寄せの法則」だった。アメリカではない、日本でもない、沖縄、もっと身近で同じ町内に住んでいる、車で2分ぐらいの所に住んでいた。
彼女が公言するように、彼女は自分がほしいものは、全て引き寄せていた。
彼女は悪性リンパ腫で夫を亡くし、母子家庭である。しかも4名のこどもを抱え、一番末子が重度なダウン症の障害があり、美容室の経営だけでは経済的に苦しいと思う。
しかし、そのような環境を乗り越え、ダウン症の障害ある有希君も、西原町では小さな天才画家が現れたと町の広報誌でも取り上げられ、今では中学生なのに、美術サロンで個展を開催するまでに成長している。美術サロンで個展を開くことは、大人でも難しく、ましてや中学生、しかも重度の障害をもつ中学生が、健常者のものではできないことではない。そこまで育てあげた智恵美さんの行動には完全に脱帽であるが、多くの人が、何故彼女が障害をもつ子をここまで育てあげることができたのか、知りたいと思っている。親だから一生懸命にやっているんだろうでは説明がつかないからである。
幸いなことに私は彼女の本を発行したとき、彼女が何を支えに彼女の行動を駆り立てているのか、聞く機会があった。
彼女は答えた。
「呉屋さん、運命を開くのは簡単だ。現実をただ受け入れ、感謝して歩むことだ」
そうか、そういうことか!
人は現実を受け入れなくなったとき、現実に不満を抱き、何故私だけがと現実を逃避し憎む。自己嫌悪に陥る。自分の人生は自分が開くものであり、他人が自分に取って代わって歩む事はできない。だから、自分の人生は自分が責任をもつ。責任をもったときに自分の人生が開かれる、その時に初めて、自分に必要なものはすべて引き寄せられる。それは自分がというものではなく、自分を守っている大魔神がおり、自分が何をしたいか意志表示さえすれば、備えてくれる。
私は小波津智恵美さんを通して「引き寄せ法則」の具体的実践を教えられた気がするが、冷静に考えてみればそうである。他人の顔色を伺い歩む人生に喜びも希望もない。自分の人生は自分が責任を持って歩むと決意した時に、全てが引き寄せられる。最も重要なことは、自分の主体性、貴方は何をしたいのかが問題であり、何をどのようには次の問題である。
今、小波津智恵美さんが取り組んでいるは映画である。
外の環境が問題ではなく、自分が何がしたいのか、ハッキリした意志を持てば、環境は必ず変る。息子のダウン症の障害、母子家庭という厳しい環境でも、夢を捨てることなく、自分が望む事を明確にすれば、必ず道は開かれるということを、映画を通して知って貰いたいとの強い思いがある。1mmでもいい、一歩でも少しづつ積み上げれば山となる。そのことを伝えたいと、今取り組んでいる映画の意義を力強く語ってくれた。
私は彼女を通して「引き寄せの法則」と付け加えて「主管性の法則」(環境を自分が管理しないと、逆に環境に自分が管理される)を教えられた気がする。
